礼拝に消化不良を欲求不満を覚える



前奏に招詞、交読詩編、讃詠、罪の告白、頌詠・・・等々。

毎回毎回、形にはまった式次第で進められる礼拝風景では、
動きがなく、ダイナミックさに欠けるようで、・・・。
消化不良を欲求不満を覚えます。

もっともっと、イエス・キリストを賛美したい・・・・。
もっともっと、神の栄光を表したい・・・。

正直なところ、日本のクリスチャンが増えない理由が、
このような礼拝風景に、
クリスチャンが増えない原因が隠れているのかもしれないと思うときがあります。

礼拝において何を伝えたいのか、そこに動きがあってこそ、
ダイナミズムと言いますか、動きが無ければ伝わらない要素もあります。

礼拝が形式的に終始すれば、
イエス・キリストによって救われた喜びを表す機会の無い礼拝だと思うのです。

このような感想が少なからず寄せられます。

キリスト教の信仰に信仰しているわけでもないし・・・。

「知らないのですか。
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、
あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・6章19~20節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 21, 2019.