希望を捨てずに大胆に追い求めよう



私は、エッセイや小論において、
キリストへの信仰というものは、
決して消極的なものではなく積極的なものなのだと言い続けています。

なぜかと言えば、こと日本の社会では、
どういうわけか、
疑いもなく習慣化している社寺仏閣ににたいする民俗的な信仰ではなく、
なにか「信仰」というものを、異質なものとして、
消極的なもののなかで一番初めに上げるものであるかのように言いあらわすからです。
多くの人には、暗くうっとうしいもののようにキリスト教は映っています。

夢やビジョンは、自らの力で達成すべきものであって、
ちからを他に期待して、
それによって事を成し得ようとするのは、情けないことなのです。

自分の思いや、自分の力、自分のやり方、
自分の可能性を信じることが美徳のように考えられているのが日本の社会です。
自分を信じて、自分が正しいと思うところを、
くじけず何度でもトライし続けろと。

成功し、自分こそ栄冠を受けるべきであると、
自分の可能性にこそ、ドリーム・カム・トゥルーがあるのだと。
それが素晴らしく美しいものなのだと。

では、キリスト教は本当に消極的なものなのでしょうか。

いいえ、決してそうではありません。
キリスト教であっても、いいえ、聖書・バイブルにあってです。

聖書・バイブルは、成功することを、勝利することを求めています。
イエスにあって勝利者であれと。

何があっても希望を捨てず、夢を描き夢を追い続けることを勧めています。
聖書の世界が描く、希望や夢は、
世俗が描く希望や夢とは、まったく異なったものをあらわすしています。

希望を捨てずに高いビジョンをかかげて、
人生で求めたいものを大胆に求め続けるようにと。
ただし、
自分の思いではなく、キリストの望むところを、
キリストなる神の意志に従って・・・・・。

聖書・バイブルは次のように語っています。
「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、
わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書15章8節・口語訳)

イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに聞き従うことによって、
多くの実を結べば、
そうすることによって、父なる神が栄光を受けるのだと。

あれ?、栄冠を受けるのは、私ではないのですか。
神が、ですか?。

日本は、個人的な評価を問題にする社会です。
しかし聖書の世界は、
栄冠を受けるのは本人ではなく神だと言っているのです。

それでは承伏できない納得できないと言われるでしょうね、
努力をかさねたのは、当の私なのだと。
自分の価値が、自分への評価が問題なのだと言いたいことでしょう。
個人的な名声や地位や富だと。
それこそが、” 問題の多い人間 ”のあこがれの正体なのです。
苦しみや混乱の正体なのです。

聖書・バイブルは、立つ場所が違うのです。
”個人という狭い世界 ”のことを言っているのではありません。
成功とは、神から与えられた資質や能力を余すところなく用いることなのです。
私たちは、ひとりの例外もなく神によって造られたものなのです。
それも素晴らしいものとして。
被造物は創造主に栄光を返すために造られたのです。
私たちはひとりの例外もなく神の秩序の下にあります。
私たちの未来は神の手に中にあるのです。

「わたしにつながっていなさい。
そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、
自分だけでは実を結ぶことができないように、
あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・15章4節・口語訳聖書)

報いある人生を送るために必要なものは、
それは、神にたいする強い個人的な信頼なのです。
それが、キリストへの信頼なのです。
生きていく上で、すべての土台となるものがキリストへの信頼なのです。
イエス・キリストは、わたしたちのために・・・、

素晴らしいものとして造られた人間は、
父なる神に背くという、
その罪により父なる神の愛から切り離されてしまいました。
しかし、その罪をあがなうために、イエスは十字架の上でその命をささげられたのです。
父なる神は、神のひとり子イエスの命を代価として、
私たちと神との和解をなしとげられたのです。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・口語訳聖書)

聖書・バイブルは、私たち人間は、自分の力で救いを勝ち取ることはできないと語っています。
自分の望みを人に求めることを捨て去ることから始めよと。
まことの成功、まことの評価、まことの勝利とは、
個人的な成功、個人的な評価、個人的な勝利なのでしょうか。

それとも、世界を創造され、
すべてを司る父なる神からの祝福なのでしょうか。

まことの成功を、まことの評価を、まことの勝利を約束するのは、
至高の存在としての神に従い、神に聞くことではないでしようか。

次の言葉は、かの有名なイエス・キリストの黄金律・ゴールデン・ルールです。
「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」
(新約聖書・マタイによる福音書・7章12節・口語訳聖書)

”自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”
これこそが成功への言葉、約束の言葉です。

私たちを愛しておられる父なる神は、私たち人間との和解を望まれていました。
しかし私たちは悔い改めようとはしません。
そこで、自らのひとり子イエス・キリストを地上につかわし、
罪人として十字架につけ、神の怒りの刃をイエスの上に下されたのです。
私たちの身代わりとして、
その命をもって、私たちの罪をあがない、ご自身との和解を完成されたのです。

成功への近道は、
自分と言う存在は、弱く愚かな、
多くの問題を抱えた罪深い存在なのだと。
創造主なる神から裁かれる存在なのだと、認識するところから始まります。


北白川 スー

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Wrote up on December 30, 2015.