信仰は感情から生まれてくる
信仰は感情から生まれてくると言っていいでしょう。
人が信仰を持つようになるには、
その人その人、それぞれに理由はあります。
具体的なものもあれば、ばくぜんとしたものもあることでしょう。
その人の気持ちなどが自然と態度や言葉や行動となってあらわれてくるものです。
それが、その人の信仰の形です。
しかし、キリストの福音の内容と意味とを知ることによって、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを知ることによって、
私情は沈黙することになります・・・・。
自分の利益や、自分の生き方、考え方ややり方などは、
家族などの私的な人間関係に立った、
また引かれ捉えられた考えは、
その利益を思う考えは、
その力と立場とを失うことになるのです。
キリストの福音は永久に不変であり、
私情をはさむ余地など許さないからです。
2000年前の、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
その死と、葬りと、復活という出来事は、
おどろくべき内容を持った出来事だからです。
しかし多くの人は、
そうとは思えないでいます。
イエス・キリストの十字架の出来事を、
受け入れることができないでいるのです。
いや拒絶さえ覚えているのです。
キリストの福音を考えてみれば、
” ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事を考えてみれば、
人間はひとりの例外もなく、すべて罪人だという。
すべての人は罪の中を歩んでいるという。
受け入れがたい内容を含んでいるからです。
キリストの福音によっては、
自分のものの考え方ややり方や生き方さえ否定されかねないからです。
日本の多数の人たちは、
自分を信じて、
自分に正直に生きることがもっとも正しく美しいことだと。
当然そうだと、そのように思っているはずです。
だから、キリストの教会からは、
はげましの言葉や、なぐさめの言葉や、
自分の生き方にたいして肯定的な態度や言葉を得ることは当然なのだと。
それなのに、キリストの福音は、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
罪人を救うために、罪人を照らし出すのです。
だから、自分の感情が許さないのです。
自分の感情に立った信仰は、
イエス・キリストがもっとも嫌う、
偶像崇拝そのものです。
自分自身に語って聞かせる福音は、
決してキリストの福音ではないからです。
私たちがキリストの福音について正しく聞こうとするなら、
何よりもまず、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の内容と意味とを、
つまり神から私たち人間に届いた神の恵みについて聞かなければならないからです。
聖書・バイブルは、
「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と語っています。
キリストの福音は、
キリストの福音に反対する者にとっては、
滅びのしるしであり、
キリストの福音を信じる者にとっては、
キリストの福音に聞き従う者にとっては、
救いのしるしだからです。
なぜなら、
キリストの福音は、神から出たものだからです。
決して自分の立場だけを中心として物を考えるものではないからです。
信仰とは、神への思いです。
創造主なる神の、
被造物としての、すべての人間は、
神を知るために生まれてくるからです。
神への思いは、
自分についての偽りの自信を砕くのです。
北白川 スー
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Wrote up on 09 February 2011.