
日本のキリスト教の信仰はどうなのか

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 日本のキリスト教の信仰における、
 日本の一般のクリスチャンの信仰は、
 いったいどのようなものなのか。
  「 わたしはあなたの行いを知っている。
 あなたは、冷たくもなく熱くもない。
 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」
 (新約聖書・黙示録・3章15節・新共同訳聖書)
 イエス・キリストは言われる。
 あなたは、冷たくもなく、熱くもない。
 わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい・・・・と。
 聖書・バイブルの基準は、
 最低それだけは満たされていなければならないものは、
 言うまでもなく、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
 しかし、日本のクリスチャンは、
 その出来事の内容と意味とをどれだけ理解し、
 承認し、受け入れ、
 自分のものとしているのでしょうか。
 このイエス・キリストの十字架の出来事こそ、
 ”福音 ”と言われるもの、
 良き知らせの正体なのです。
 「 私は福音を恥とは思いません。
 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
 信じるすべての人にとって、
 救いを得させる神の力です。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新改訳聖書)
 しかし、日本のクリスチャンといえば、
 孤立し、悩み多く、暗く沈んでいる・・・・。
 それが現実です。
 生産現場であれ、職場であれ、学園であれ、地域社会であれ、家庭であれ、
 確信に満ち、喜びと感謝にあふれ、
 リーダーシップを発揮し、 日々の暮らしを送っているクリスチャンは、
 この日本、どれだけの数、居ることでしょうか。
 日本のキリスト教の信仰は、
 まさしく、冷たくもなく熱くもない・・状態なのです。
 聖書・バイブルは、
 地の塩けとなれ、世の光となれと、
 自分に迫ってくるように聞こえます。
 そう思えば思うほど、
 すべては空回りするのです。
 キリストへの信仰の確信がないのに、
 救いの確信がないのに、
 地の塩にも、世の光にも、
 なることはできません。
 自分は、まだまだ不十分で遠い存在だと思っているのです。
 十字架に死なれ、復活されたキリストが、
 十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)によって、
 自分は神の裁きから救われたと、
 確かにそうであると確信に満ち、
 喜びと感謝にあふれているのなら、
 イエスは、常にあなたと共におられ、
 イエスの御手は共にあり、
 あなたの領域をひろげ、
 災いもなく、苦しみもない、
 希望に満ちた人生が待ち構えているのです。
 領域は増えたけれど、
 前にも増して、疲れと悩みが増えたなら、
 それは、真に主イエスと共にあるとは言えません。
北白川 スー
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Wrote up on  17 July, 2012.