イエス・キリストの十字架



私たちは、誰しも、暮らしの中で、常に、
様々な問題を起こしますし、抱えもします。
それを、個人的な環境やつながり、展開や関係で考えるのか、
それとも、すべての人間が共通に持っている人間固有の性質によるものだと考えるのか。
その違いは、すこぶる大きい。

イエスが十字架にかけられ死刑となった出来事は、
神の怒りの裁きがイエスに下ったという出来事です。

まったく罪のない、神のひとり子イエスが、
十字架にかけられ死んだという出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

イエスがすべての人の罪をその身に負い、
すべての人に代わって、十字架の責め苦を受けられたのです。

キリストとは救世主、メシアのことです。

キリストがこの世に生まれたということは、
この世界が神の目から見て堕落していることを意味しているわけです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

すべての人が正しい存在なら、救世主など必要ありません。
私たちは例外なく罪深く、裁かれなければならない存在なのです。
正しいから救われるのではなく、
悪から救い出されなければならないのです。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
すべての人々に向けられた、神の啓示の出来事です。

十字架の出来事が示しているのは、
私たちの具体的な思いや言葉や行為といったものよりも、
その裏にあるもの、その根底にあるもの、
私たちの心の奥底にあるもの、
外に現れているものではなく、
もっと根の深いところにあるものを明らかにしているのです。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
すべての人間が持っている罪深い性質を、
強烈に、白日の下にさらし、暴露しているのです。

あなたを、悪の世界から救い出すために、
イエスは、その命をささげられたのですから。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
すべての人間が持っている、
共通の問題を明らかにし、また、
そこから抜け出す道筋を明らかにしているのです。

私たちは決して正しい存在ではありません。
創造主にたいして罪を犯し続けているのですから。

私たちは、人の思いや言葉や行為といったものを責めますが、
すべての人間の持つ罪深さという性質については考えません。
私たちは時々過ちを犯すから罪深いのではなく、
常に罪深いから、いつも罪を犯すのです。
罪を犯していることさえ気づきもしません。

罪深い存在なのだと気づけば、認識すれば、
自分の思いや行為といったものを疑いもしますし、
おのずから自制も生まれてきます。

キリスト教の信仰とは、
自分は罪深い存在なのだと自覚することによって、
自分の考えや思いではなく、
イエス・キリストに聞き従う信仰も生まれてくるわけです。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

日本では、人はもともと善なる存在だと考えますし、
良心に働きかけ、頼りにすることを教育だとも考えるようですから、
なかなか、キリスト教の根本的な考えは理解されないようです。


北白川 スー

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Wrote up on January 04, 2016.