神の裁きからの救い
日本のキリスト教の教会でも取り上げることの少ないテーマ「罪の問題」・・・。
” 罪 ”を考えるとき、
それは明確に言って、
厳格に自己責任を問うものなのです。
きびしく誤りやごまかしを許さず、
キリストは名指しで言う。「悔い改めよ」と。
「悔い改めなさい。天の御国(神の支配)が近づいたから。」
(新約聖書・マタイによる福音書・4章17節・新改訳聖書)
しかし日本のキリスト教の教会の対応は違ってくる。
人にたいして甘く温情的なのです。
人は、なぐさめの言葉や励ましの言葉を期待して教会にやってくるからです・・・。
自分の生き方にたいする肯定的な態度や言葉を期待して・・・。
それは、自分が体験している社会の中で、
自らが何らかの理由で苦しんでいる証拠でもあるわけです。
だから、人間的ななぐさめの言葉やはげましの言葉がいやしとなり救いとなるのです。
だからと言って、それでは、決してまことの神の救いにはなりません。
あくまで人間的な対応がいやしとなり救いとなっているに過ぎないのです。
救いとは、神との関係の上に立って成り立つものです。
「・・・・あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、
その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。
この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章3〜5節・新共同訳聖書)
神の裁きからの救い・・・・
キリスト教が明らかにするのは、神からの救いなのです。
しかし、救ってくださるのも神ご自身なのです。
北白川 スー
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Wrote up: 22 April 2010.