福音が語られない日本



福音とは何ですか、と、まず問わなければなりません。
どれだけ、日本のキリスト教は、
またクリスチャンは、
その内容と意味とを言葉をもって説明できるでしょうか。
聖書・バイブルは次のように語っています。

「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

現実の社会生活の中にあって、
教会の、またクリスチャンの経済的な豊かさや、
健康や知識や立場や地位や人間関係の豊かさが ”恥としない”理由なのでしょうか。
聖書は、”福音は神の全能である”と・・語っているのです。
福音自体が力であり、神の力であり、
ほかのものに比べて、何よりもまさっているのです。
福音とは、聖書が語り伝えるように、
まぎれもなく、
神の怒りの啓示そのものなのです。
イエス・キリストの十字架の死こそ、
創造主なる神からの、
怒りの啓示なのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそ神の怒りの啓示そのものなのです。
私たちは、この福音による神の啓示を、
長い人間の歴史の数多ある事件の一つのように見ることは許されません。
このイエス・キリストの十字架の出来事を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
その出来事の証人となる以外に聞くことは許されないのです。
それが教会でありクリスチャンなのです。

「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

さらに聖書はたたみかけるように示します。

「 なぜなら、わたしたちは皆、
キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)

イエス・キリストの十字架の出来事は、
イエス・キリストの上に下された神の怒りは、
神の裁きの判決そのものなのです。
私たちの上に下されるはずの神の怒りの判決が、
私たちに代えて、
ご自身のひとり子イエス・キリストの上に下された怒りの判決・・・。
私たちは救われなければなりません。
神の怒りの判決から・・・・。
しかし、救ってくださるのも神ご自身なのです。
だから、神の怒りの判決から救われた喜びは、
何よりも増してアメージング・グレイスなのです。


北白川 スー

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Wrote up on October 19, 2012.