十字架は、輝いていますか



あなたのまわりでは、十字架は、輝いていますか。
ほかに比べるものがないほどに、光り輝いていますか。
十字架は、教会の所在を示す目印ではありません。
胸元を飾るファッションではありません。

十字架に、そこにこそ、イエス・キリストがおられるのです。
豊かに、ゆるぎない存在感をもって、まぎれもなくおられるのです。
犯すべからざる権威と、
他の何ものにも代えることのできない言葉によって、
私たちに語られているのです。

「 イエスは再び言われた。
・・わたしは世の光である。
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。・・」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・8章12節・新共同訳聖書)

わたしたちにとっての光り輝く十字架は、
私たちが、どのような状況に置かれていても、
背を向けていても、間近にいても、遠くにいても、気付かずにいても・・。
私たちを照らし出している存在なのです。
そして、語りかけられています。
その声を聞いて、ただ、その声に答えるだけなのです。
気のすすまない状況であっても、
心が満たされないときであっても、
人の言葉が恋しいときであっても、
自分は十分に信仰に熱心であると思っていても、
決して、私たちが答えるということが重要なのではなく、
イエス・キリストがそこにおられて、
私たちに向けて常に呼び求められているということだけなのです。

イエス・キリストは、私たちか答えようが、
また、背を向けて黙っていても、
その光を、私たちの世界のただ中で、
世界中に光り輝しておられるのです。

イエス・キリストは、信仰に熱心な者のための真理ではなく、
その正当性を理解し認めることによって立てられるような存在でもなく、
見ようが、目を背けようが、
聞いていようが、聞かないでいても、
従っても、拒んでも、
関係なく、イエス・キリストは、自らの力によって、自らの道を歩まれ、
十字架の死と葬りと復活という自らのわざを、
十字架の死による罪の贖い(あがない)という、
神との和解というわざを完成されたのです。
その”十字架の死というわざによって、世界が明るく照らし出された”ということなのです。

イエス・キリストそのものが、
すべてのものを照らす強力な存在なのです。
人間社会のもっとも暗い片隅であっても、
きらびやかに飾られた広間の中であっても、
うちひしがれ、暗くよどみ沈んだ心の中にも、
豊かさに満ちた、かりそめの中にも、
この地上に、この世界に、私たちのただ中に、
大いなる栄光と希望に満ちた光りを輝き示されたのです。

イエス・キリストは、その十字架の死という出来事によって、
人間のすべての罪を赦し、心の病をいやし、体の病をいやし、
人間のすべての重荷を取り去ってくださったのです。
それが、キリストの十字架の力なのです。

「 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・12章46節・新共同訳聖書)

イエス・キリストの圧倒的な存在感を、あなたは感じ取っていますか。
残念ながら、日本では、
イエス・キリストの存在感を感じ取れないかもしれません。
キリストなき、福音なき習いが大手を振って歩いているからです。
かりそめの輝きがあったとしても、
日本は、やみにおおわれているのかもしれません。

「 イエスは言われた。
・・光は、いましばらく、あなたがたの間にある。
暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。・・・」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・12章35〜36節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on December 07, 2013.