神ぞ知る救いと神の霊



困難な状況から抜け出したなら、救われたと思うでしょう。
困難な状況ばかりに気をうばわれ苦しみ続けていれば、
救いから、ほど遠いと思うでしょう。
抱えている問題が、なにものも解決していないのなら、
救われたとは思わないでしょう。

教会で、あなたは救われましたと言われても、
そう言われても、
救われているのかどうか分からないのが本音なのです。

しかし、聖書・バイブルが語る”救い ”というものは、
依然として困難な状況の中にあり、
困難な状況が続いていても救いは救いなのです。
困難であろうが、救われているのです。

私たちは、ただ救われたと信じることしかできないのです。
それが、まことなのか偽りなのかどうかは人間には分からないのです。
ただし、キリストが再び来られるときには、はっきりとします。
それこそ神ぞ知るなのです。

「 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。
このことから、わたしたちが神の内にとどまり、
神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
わたしたちはまた、
御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、
神がその人の内にとどまってくださり、
その人も神の内にとどまります。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、
また信じています。神は愛です。
愛にとどまる人は、神の内にとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。
こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、
裁きの日に確信を持つことができます。
この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」

(新約聖書・ヨハネの第1の手紙・4章13〜17節・新共同訳聖書)

「 ここであなたがたに言っておきたい。
神の霊によって語る人は、
だれも・・イエスは神から見捨てられよ・・とは言わないし、
また、聖霊によらなければ、
だれも・・イエスは主である・・とは言えないのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・12章3節・新共同訳聖書)

「 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
ここでいう主とは、“ 霊 ”のことですが、
主の霊のおられるところに自由があります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2手紙・3章16〜17節・新共同訳聖書)

神が与えてくださる”霊 ”によって救いを、
たしかにそうに違いないと信じさせられるのです。

神の霊の注ぎというものは、
自分の思いを圧倒するほどの啓示なのです。
自分の知識が浅く乏しく偏っていることを悟らされるのです。
それまで理解できなかったことが、
とつぜん明快に、
もっともだと信じさせる論理性をもって分かるようになるのです。

自分を苦しめている問題が、
自分にとって大事な問題だと思っている以上、
その問題に囚われているわけですから救いから遠いでしょう。
しかし、自分にとって大事な問題だと思っていたことが、
実は大したことではなく、
ただ自分を苦しめていただけなのだと分かったなら、
そこには解放があります。
そのように理解させるのが神の霊の注ぎなのです。

神から来る希望こそが救いの源なのです。
救いは、主イエスにあるからです。

「 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、
そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。」

(新約聖書・エペソの信徒への手紙・3章19節・新共同訳聖書)

救いの出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の意味を理解するということは、
自分の持っている知識や世間の常識というものでは、
とても及ばないことを知らなければならないのです。

自分の思いや自分では気付いていない思いまでもが、
自分のやり方や考え方で物事を見ることがもっとも正しいと思っているその思いを、
問題にならないほどの強い力で変えさせるものがやって来るのです。
それが神の霊なのです。

救いとはなんでしょうか。
それは、裁きの日に確信を持つことができるのです。
裁かれても救われていると。
永遠の命に入ることができると。


北白川 スー

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Wrote up on November 22, 2013.