日本のキリスト教の信仰について


 日本の社会は、宗教や信仰にかかわる行為や行動にたいして、

 その見る目は、冷ややかであり、疑いの視線を向ける傾向が強い。

 しかし、人は、宗教的な関心や、とらわれを、

 知らず知らず人生の中にその位置を占めているものです。

 宗教的な帰属とまで行かなくても、

 血縁や地縁で結ばれた共同体の秩序の維持のために、

 宗教的な行為や行動は重要視されています。

 自分では意識しないが、行動や考えに影響を与えているのです。

 人間という存在は、本当は潜在的に宗教的なのだけれども、

 そうとは知らず気づかず、

 人が宗教や信仰に走ることを嫌い、

 信仰は、まわりを見えなくすると考え、

 信仰にたいして疑わしさを覚えているのです。

 信仰は、非科学的で迷信的な態度だと思っています。

 信仰に走るのは、女性のすることであり。

 弱く不安定な者のすることだと・・・。

 また一般的に見て、信仰そのもののデザインや思い込みが、

 欧米と日本とでは大きな違いがあるのも事実です。

 キリスト教の信仰について聖書・バイブルから聞くなら、

 キリスト教の信仰とは、

 消極的なものではなく、

 また個人的なものではありません。

 積極的なものであり、

 社会とのかかわりの中で、

 信仰を告白し、言い表すものなのです。

 そうであるがゆえに、

 人間の人生のすべての土台になるものであり、

 人生のすべての面において支えになるものなのです。

 キリスト教の信仰は、

 この世界を造られた創造主なる神を信じるということは、

 信じる者の人生に希望を与えることにつながると・・・。

 しかしながら、自分を信じて生きることが、

 自分の可能性を信じて生きることが、

 もっとも美しく正しいことだと信じている者にとっては、

 何とも、受け入れがたい人生観なのです。

 宗教することは、人生の戦いに敗れた、後ろ向きな行動だとさえ思っています。

 ノンクリスチャンは言います。

 その神を知るにはどうすればいいのか・・・。

 もし神が存在するなら、どのようにして知るのか・・・。

 クリスチャンは言います。

 信仰が、人生の土台に、また支えになるのなら、

 どうしたら、その信仰を見つけることができますか・・・と。

 私たち人間が、神を知ることがないのは、

 それには理由があります。

 ここで言う神とは、この世界を、また人間をも造られた、

 創造主なる神と、そのひとり子イエス・キリストを指します。


 「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。

 それは神の知恵にかなっています。

 そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章21節・新共同訳聖書)


 この世界が自分の知恵によって神を知ることがないのは、

 私たち人間は、その罪深さにより、

 神から切り離されているからなのです。

 エデンの園で、禁断の果実を取って食べたという出来事にさかのぼりますが、

 最初の人間アダムが神に背いたことにより生まれた、

 神と人間との間に広がる深いみぞは、

 神を知ることを妨げているのです。

 しかし、イエス・キリストの十字架の出来事こそ、

 この世界を造られた創造主なる神は、

 そのひとり子イエスを人の子としてこの世界に生まれさせ、

 人としてのイエスは、

 私たちの罪の、創造主にたいする罪の、

 その代価を支払うために、

 つまり、・・・贖う(あがなう)ために十字架の上で死なれた・・・のです。

 この出来事こそ、

 ”ひとりの人がすべての人のために死なれた”という出来事であり、

 私たちの人生すべてにわたるキーワードが、

 希望であれ、自由であれ、繁栄であれ、信仰であれ、

 家族であれ、命であれ、・・・、・・・、

 語りつくせないほど言い表されているのです。

 イエス・キリストの十字架による死と葬りと復活は、

 古きから新しきへ・・・、

 創造主なる神の創造の秩序をあらわしているのです。


北白川 スー

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Wrote up on 01 March 2011.