敬虔な宗教心と十字架と隣人愛



キリスト教の信仰を決定づけている出来事、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を解き明かさずに、
たとえ聖書の言葉を引用して、
敬虔な宗教心を説こうとしても、
それは、もはやキリスト教の信仰ではなくなってしまうのです。
日本人に敬虔な宗教心を身につけてもらうために、
聖書の言葉を伝えようとするなら・・・。
人として、 人を思いやり愛する隣人愛がもっとも大切なものなのだと説こうとするなら。
しかし聖書・バイブルは、

「 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・13章34節・新改訳聖書)

とイエスは語っているように・・・。
ここで重要なのは、
「わたしがあなたがたを愛したように、」という言葉です。
この言葉は、神の究極の選択と態度の決定という、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ、
(あがないのわざ)という神の愛の出来事をあらわしているのです。
ただ、互いに愛し合うことが人間においてもっとも大切なことだとは言ってはいないのです。
人には宗教する心というものがもともと備わっていて、
その宗教心を掘り起こすことがもっとも大事な事なのだと・・・。
だから、
敬虔な宗教心を身につけるために聖書の言葉を伝えている・・・となれば。
それは、
人の宗教心に焦点を当てているのであって、
キリストの福音による救いを語っているのではなく、
決してキリストの福音を語り伝えようとしているのではないのです。
だから信仰のハウツウに、
どのように信仰するのかということになってしまうのです。

「 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
したがって、信仰は聞くことによるのであり、
聞くことはキリストの言葉から来るのである。
しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。
否、むしろ/「その声は全地にひびきわたり、/その言葉は世界のはてにまで及んだ」。

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章16〜18節・口語訳聖書)

聖書は明確に語っているのです。
信仰というものは、神の啓示から、
イエス・キリストの十字架の出来事から起こされるものなのだと。
そして、キリストの福音に不従順な者にこそ、
神を神と思わない者にこそ、
救い主としてのイエス・キリストがこの世界に生まれ来る必要性が生まれたのだと。
ただの人間愛、隣人愛だけならば、
それは神という存在を必要とはしません。
常に、人間同士の愛には危険が付きまとっていることを、
私たちは、いやというほど思い知らされているはずです。
失ってしまった神との関係を、
再び取り戻すために、
キリストがこの世界に来られたことを忘れないでください。

「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、
人々にもそのとおりにせよ。
これが律法であり預言者である。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・7章12節・口語訳聖書)

神は私たちに望まれている、
私をあがめよと、
まことの礼拝者を求めているのは私であると。
しかし、神をあがめ、神に従うことをしないのは人間たちなのです。
だからご自身のひとり子イエスの命をささげられた。
神がしたいと願っておられることに応える人を求めておられるのです。
神は、神の民から、してほしいと望まれています。


北白川 スー

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Wrote up on November 29, 2012.