信仰が理想に終わるなら
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深刻な状況に追い込まれたとき、
それは、自分の限界が分かり始めたときなのかもしれません。
自分の限界を限界として認めたくない心理も働きます。
ここで、素直に限界を認め、
限界から抜け出そうとするなら、
新たなものへのあこがれや、
いまだ知らないものを見極めようと、
探し求め始めるもします。チャレンジの始まりです。
キリスト教の信仰は、高い理想を掲げています。
その理想が高すぎるため、理想に終わってしまうなら、
それほどむなしいものはありません。
どれほど理想が高くとも、
それを現実のものにしようとするなら、
根本的な意味を考えたり、実践が伴わなければ、
何のための理想なのかということになります。
つまり、
キリストへの信仰と現実との暮らしとが別々のものではないことを意味しているのです。
キリストへの信仰が、自分の生きざまにおいて、
自分の人生を支え、
人生の土台となっていなければならないのです。
そうでなければ、
キリストへの信仰と現実の暮らしとを使い分けることが起きてきます。
本来は一体であるはずの、信仰と暮らしとが、
つながりもなく離れて存在しているのなら、
そこにあるのはただ混乱だけではないでしようか。
キリストへの信仰を、単に理想としてだけとらえているのなら、
現実とは別ものなのだと考えているのなら、
人生の中で何か深刻な問題に出会い、
のっぴきならない状態におちいったとき、
どうしたらいいのか分からず、
何をしたらよいのか分からず、
何が起きるのか分からなくなったときも、
これから、どのような展開になっていくのか分からなくなったとき、
キリストへの信仰は力を持たないものになります。
「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)
キリストへの信仰は、キリストの福音の上に立っているはずです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事に、
支えられ決定づけられているはずです。
あらゆる時間と、あらゆる行為にわたって、
暮らし全体の意味を根本的に変革することを意味しています。
キリストに出会う前と、
キリストに出会って後との違いは、
キリストの恵みの中に入れられ、
人間を罪から解き放つキリストの恵みの働きを知り得ることができるようになったことを意味し、
罪の赦し、神の裁きからの救いという至福の目標に向けて、
キリスト者・クリスチャンの暮らしというものは、
この地上で、創造主なる神の栄光をあらわし増し加えることを、
その暮らしを支配するものとなるのです。
しかしこと日本では、この理想は実現しそうにはありません。
日本は義理の社会です。
義理を欠くことへの恐れ、それが日本のクリスチャンを支配しています。
「 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」
(新約聖書・マタイによる福音書・7章3節・新改訳聖書)
信仰が理想に終わるなら、それほど、むなしいものは他にない。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on November 24, 2012.