イエス・キリストの死・その非常におどろくべき出来事
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 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという、
 非常におどろくべき出来事なのです。
 しかし、この日本では、
 そのおどろくべき出来事の内容と意味とが語られる機会が、
 あまりにも少なく、
 そのイエス・キリストの十字架の出来事が、
 だれひとりの例外もなく、
 すべての人間にかかわる、
 おどろくべき出来事として認識されているわけではありません。
 それが日本の現状であり現実なのです。
 このイエス・キリストの十字架の出来事こそが福音と言われるものであり、
 すべての人の生にかかわる決定的で大切な事柄なのです。
 「 私は福音を恥とは思いません。
 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
 信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新改訳聖書)
 しかし、この日本では、
 すべての人の人生にかかわる大切な出来事だと語られる機会が、
 まことに少ないのです。
 ですから多くの人がその出来事を知らないのが現実なのです。
 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、
 永遠の命を得るためである。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章16節・新共同訳聖書)
 語られることがなければ、
 聞くこともできません。
 このイエス・キリストの福音と言われるものには、
 罪とか、罪の赦しとか、救いという事柄が語られています。
 この罪とは、
 神への背きの罪のことであり、
 私たち人間の、
 思いや言葉や行為に深く影響を与えているものなのです。
 その神への背きの罪が、
 思いや言葉や行為となって、
 自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
 しかし、私たちは罪を犯しているとは気付いてはいません。
 自らの正当性を主張することが正しいとさえ、
 まわりの人にパフォーマンスして見せます。
 それが最も罪深いことなのです。
 神への罪には、当然のこととして、
 神の裁きが待ち受けています。
 その神の裁きからの救いこそ、
 キリスト教の言うところの救いそのものなのです。
 キリストの福音を受け入れてこそ、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
 もっとも自分にかかわりのある出来事として、受け入れるなら・・・・。
 「 口でイエスは主であると公に言い表し、
 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
 あなたは救われるからです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
 この信仰こそ、
 信じた者の人生に深くかかわり、
 創造主なる神によって祝福された人生を送ることになるのです。
 ただし、
 苦難は人の品性を練り上げるものであることを忘れてはなりません。
 苦難の人生をです。
 信じようが信じまいが、人間の人生は苦難の中にあり続けます。
 それが人間の本性ですから。
 信じたからと言って、
 神に聞き従わない人生を送るのなら・・・。
 それは意味を失います。
北白川 スー
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Wrote up on  March 26, 2012.