教会が語り伝えなければならない事柄
教会が語り伝えなければならない事柄・・・そこに教会の基礎があるのです。
人は、さまざまな必要や事情で教会に足をはこぶものです。
しかし、社会一般から何らかの求めがあったとしても、
教会が、さまざまな人が出入りできる、
それなりの広がりを持っていたとしても・・・・。
教会は語り伝えなければならない事柄を持っているのです。
そして、その事柄にこそ、人間社会の中で、教会が教会として存在している理由と基礎があるのです。
語り伝えなければならない、その事柄こそ、
イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
しかしこと日本では、この点がもっとも明確になっていないところなのです。
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事の内容と意味とが、
教会の礼拝で語られる説教・メッセージで語られる機会が少なく・・・、
いや、語られない教会すらあることにおどろかされるのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
(新約聖書・ヨハネの第1の手紙・4章9〜10節・新共同訳聖書)
イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
イエス・キリストが、私たちのために死なれたことによって、
神の私たちにたいする愛が明らかにされたのです。
イエス・キリストが十字架にはりつけになり死刑となったのは、
・・・私たちの罪のために死んだ・・・という出来事なのです。
私たちの罪の贖い(あがない)のために・・・・・。
ですから、人間の罪が何であるかを知らなければ、
理解していなければ、イエス・キリストの死は意味を持ってはこないのです。
その罪が何であるかが分かって初めて十字架の意味が分かってくるのです。
人間の罪とは何か・・・・・このテーマこそ教会で語られなければならないテーマなのです。
そうしなければ、この世界を造られた創造主なる神との和解というテーマも理解できないことでしょう。
私は罪など犯していないという方も教会に来られます。
罪人呼ばわりされることに抵抗を覚える方もおられます。
しかし、キリスト教では、
罪とは何であるかということがまず問われなければ、
一歩も前へ進むことはできないのです。
そして、イエス・キリストの十字架の死による罪のあがないを、
自分の罪深さからの解放の出来事として体験して初めて、
イエス・キリストへの信頼・信仰が育ってくるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 08 July 2009.