十字架の死とは



キリストの福音は、
私たちの日常生活と、
何か別の世界や次元のことで、
私たちの暮らしには、
まったく何の関係のない事柄だと思っています。
私たちは、ごく身近に起きていることに、
目に入ってくるもの、耳に聞こえるものに、
気をうばわれ、気を捕らわれます。
身近に起きているために、
とても大事なことと、重大なことと、
すべてに優先して、しなければならない大切なことと、
最初に考え最初に行動しなければならないものと考えます。
ですから、ときとして本質的なことを身落とし見逃してしまうものなのです。
その事が起きた原因や源について身落とし見逃してしまうのです。
私たちの思いや言葉や行為や行動を支配しているものを・・・。
それが生まれながらに持っている性質に原因があって、
潜在的なものと言っていい性質によって、
自分では少しも意識していないものによって、
自分の思いや行動に影響を及ぼされているとは、
なおさら気付かないのです。
しかし、聖書・バイブルは、
この人間の本質的なことから語り始めるのです。

 「 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新共同訳聖書)

福音は、救いをもたらす神の力だと・・・・。
福音とは、キリストの福音のことです。
イエス・キリストの十字架の出来事のことなのです。
十字架の死とは、まぎれもなく、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
だれひとりの例外もなくすべての人にたいして明らかにされた出来事なのです。
しかし、日本人には、
あまりにも知らされていないショッキングな出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事において語られた、
すべての人間に明らかにされた、
神の啓示というものなのです。
それも、すべての人間が罰せられるという、
神の裁きの判決だからです。
この神の怒りの啓示は、
神の裁きの判決としての福音を含んでいます。
えっ!!、判決が福音・・・。
イエス・キリストを信じるすべて人たちにたいして、
罪からの解き放ちを宣言するからです。
イエス・キリストの十字架の出来事を、
キリストにたいする信仰の中で聞かれ受け入れられとき、
この出来事を真をもって聞いた者にたいして、
神にある正しさ・義を与えられるのです。
だから、真に福音と成りえるのです。
十字架による死というショッキングな出来事ですが、
神の怒りの啓示ではありますが、
神の怒りの啓示を、
世俗的な価値観でとらえれば、
悪い知らせとなるでしょうが、
聖書的な価値観に立とうとするならば、
悪い知らせではなく、
まさしく良き知らせ・ゴスペルとなるのです。
福音とは、創造主なる神と、
被造物としての人間との和解についての、
おどろきと喜びとを合わせ持った、
神の怒りの判決という啓示としての出来事なのです。
しかし、この日本では、
あまりにも知らされていないショッキングな出来事なのです。
なぜ、神が人間にたいして怒りを下さなければならないのか。
なぜ、神と和解しなければならないのか。
まったく日本では明らかにされてはいません。

「 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)

ひとりの不従順とは、
最初の人間・アダムのことです。
ひとりの従順とは、イエス・キリストのことです。
すべての人間の祖先であるところの、
最初の人間アダムとイブが、
創造主なる神に背いて、禁断の果実を取って食べたという、
エデンの園の出来事に始まる・・・・。
人間の罪の起源であり、
人間と神との離反の始まりなのです。
人間の心が創造主なる神から離れ、
背くこととなった始まりなのです。
人間の、すべての思いや言葉や行為といったものに影響を与えている本質的なものの起源なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事と、
私たちの本性的なこととが密接な関係にあることを理解しなければ、
キリストの福音についても正しい理解を得ることはできません。
すべての人間の人生に影響を与えているものについて・・・・。

「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、
神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・口語訳聖書)

人間の本性的な罪にたいしての神の判決は死です。
その死を、すべての人間に代わって、
神のひとり子イエス・キリストがその身に負って、
神の怒りを受けられたのです。
私たちに代わって・・・・。
イエス・キリストが死んでくださり、
三日の後に死人のうちから復活されたということは、
すべての人が死んだことを意味し、
すべての人が復活にあずかることができることを意味しているのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を信じることによって・・・・、
神の裁きから救われるのです。

「 実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章10節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 20 , 2012.