宗教と言われるもの



 宗教と言われるものは、

 人間の生き方に深くかかわっているものです。

 ですから、暮らしの中の日常性に強く結びつきやすいものなのです。

 信仰している信者さんの、

 ”その人の宗教 ”と言っていいかもしれません。

 その人が信仰している宗教にたいして、

 何にたいして信仰しているのかという自覚や認識に欠けていたり、

 信仰者としての主体性に欠けた反省を持たないまま日常に流されやすいものなのです。

 大切なことを気付かずに日々を過ごしているのです。

 キリスト教の教会であっても、

 ”神の作品としての人間にたいして、

 イエス・キリストの生と死と復活において備えられた・・・福音を・・・。”

 日本のキリスト教は、福音を語らないところに、

 ・・教会は ”福音 ”を語っていると主張していますが・・・

 福音を語らないところに、

 具体的にイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を解き明かさないところに、

 存続している土台を理由を置いているように見えます。

 神の啓示としての福音の真理にたいしては、

 人間の理性は関わることはできません、

 また許されない原則があるのですが、

 現実は、現実社会と ”御国 ”とを同じレベルで、

 考え処理し行動しているようにも見えます。

 信仰している人の日常性や社会性に深く結びつく傾向が強いものなのです。

 日常のさまざまな必要を訴えるなら、

 個々人の利益を優先するなら、

 それは、ご利益信仰と言えます。

 日常性に深く結びつく傾向が強いと、

 ご利益信仰に傾きやすいものです。

 ”御国 ”と現実社会とを同じレベルで考えてしまうと、

 あるべき本来の世界や価値観から外れてしまうものなのです。

 教会が社会のシステムの一部に組み込まれたり、

 教会が社会運動の一部を担ってみたり、

 主催したりリードしたりします。

 このような見方をしますと、

 日本のキリスト教の信仰や教会が聖書的なものから離れていると言えるかもしれません。


 「 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、

 だれがあなたがたを惑わしたのか。

 目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」

 (新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・3章1節・新共同訳聖書)


 キリストへの信仰とはいったい何でしようか、

 どういうことなのでしようか。

 言いかえれば、

 現実社会の基準から失われてしまったものと言えます。

 現実の社会の中から見失われた基準・・もう一つの世界観と言えます。

 つまり、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)によって明確に示されたもの・・・・。

 私たち人間は創造主なる神によって目的を持って創造された作品なのです。

 私たち人間は神の作品として生かされた存在として生きているのです。

 創造主なる神の栄光のために。

 しかし、その神に背いて罪に落ちてしまった人間たち。

 まったく神の意志から正反対の方向に向いて、

 神に背を向けてさ迷い歩いている人間たち・・・・。

 あるべき本来の世界から離れてしまった人間たち、

 それが現実の人間社会の姿です。


 「 現在の苦しみは、

 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、

 取るに足りないとわたしは思います。

 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 被造物は虚無に服していますが、

 それは、自分の意志によるものではなく、

 服従させた方の意志によるものであり、

 同時に希望も持っています。

 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、

 神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

 被造物がすべて今日まで、

 共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

 被造物だけでなく、“ 霊 ”の初穂をいただいているわたしたちも、

 神の子とされること、

 つまり、体の贖われることを、

 心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章18〜23節・新共同訳聖書)


 ”信仰とは何ですか ”と、問い直さなければなりません。

 キリストの福音に、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の中に、

 神との和解の出来事の中に、

 あらわされている真理に生きようとする姿勢が信仰そのものなのです。


 「 実に、信仰は聞くことにより、

 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)


 創造主なる神によって命を吹き入れられた人間たち、

 神の手によって造られた、

 被造物としての人間が、

 身勝手に、思いのままに振る舞うことは許されることではないのです。

 しかし、思いのままに振る舞った結果を私たちは、

 いやというほどに味わっているはずなのです。

 本当に懲りない人間たちです。

 生かされて今あることを再認識しなければなりません。

 神の目的のために。


 「イエスは言われた。

 はっきり言っておく。

 心を入れ替えて子供のようにならなければ、

 決して天の国に入ることはできない。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・18章3節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on September 10 , 2012.