あながち誤りではない大胆な仮説を



日本のクリスチャン人口は、ギャロップの統計調査では、
自称クリスチャンを含めて6パーセントという数字があります。
日曜日の礼拝に集う人たちと言えば、
全人口の1パーセント未満です。
依然としてキリスト教の広がりを見せない日本の社会なのです。

いったいどのような事情が、その影響が他に及ぶことによって、
キリスト教の拡大発展を阻害してきたのでしょうか。

もともとキリスト教は欧米で発展してきたわけです。
日本におけるプロテスタントの布教活動の歴史は、
わずか150年と言われています。

それと同じくして始まった明治以降における、
急速な西洋化、近代化の動きは、
社会的弱者を生み出す側面を持ち合わせていました。

日本の150年のプロテスタント宣教は、
明治以降、資本家階級を対象とはしないで、
主に、日本的資本主義の発展に伴って生れてきた、
社会的弱者となった人たちのケアを役目としてきたと言っていいでしょう。

明治以降の経済活動によって生み出された社会的弱者の社会的な救済事業ということになります。
この傾向は、現代に至るまで続いています。

本来なら、キリスト教の信仰というものは、
深遠で体系的な神学として、
普遍的な意義と妥当性を持つ発展傾向を取る文化的現象として、
政治に経済に教育に医療などのあらゆる分野に、
建設的で発展的な影響を与えるものなのです。
そのようにして欧米ではキリスト教の信仰は発展してきました。

だからと言って物質的に豊かな社会を目指すものではありません。

しかし、こと日本では、プロテスタントの信仰にたいして、
建設的で積極的な評価は与えられず、
合理性に満ちているとも見られず、
文化を支配するほどの重要性を持ち備えた、
社会秩序を形作る重要な意義を持つものとして評価を与えなかったのです。
それはそれなりに理由があったのでしょう。

日本の地域社会と言えば、
依然として、伝統的な古い習慣にとらわれた、
因習的な仕方で事が運ばれ続けています。
それは現代でも同じです。
地域社会の秩序の維持という重要な側面を持つからです。

欧米では、
特に信仰を持つ市民階級において、
生活秩序においても、
経済活動においても、
聖書・バイブルの言葉に根差した、
プロテスタント的合理主義が、
キリスト教的なものが持つ土台として機能してきたわけです。

欧米では、キリスト教の信仰は、
政治経済と密接に関係しあった合理的なものとして見られていても、
日本では、キリスト教的な合理性は、非合理性と見られているのです。
いまだに迷信や非科学的なものとして見られています。

聖書・バイブルは、
大切なことを口移しで伝えるというものではなく、
文字によって語り伝えられて来たものです。
聖書・バイブルの記述は、
文字を通して、
神が語った言葉として生命を持つことになるのです。
決して精神性だけの信仰ではありません。
神の言葉に立った具体的なものなのです。

聖書に文言によって記述されている諸原理原則は、
教会に神の言葉に応答した幅広い人材を集め、
聖書的な影響を社会に与え続けるのです。

しかし、こと日本では、教会は、
社会的弱者の救済というものに力点を置いてきたため、
社会そのものに影響をあたえ、かつ改革する、
または発展させる要素としての合理的な ”宗教的経済倫理 ”を日本に根付かせることを怠ってきたのです。

日本では、いまだに、
合理的な証明に欠ける占いの類が、
社会生活に、また経済に与える影響が大きく決定的だと信じられているのです。

日本のキリスト教の教会やクリスチャンが、
キリスト教の信仰を、
合理的なものとして、
社会や政治や経済や教育や医療などに与える影響力を持つものとして考えないところに、
いまだに広がりを見せない日本的キリスト教が存在しているのかもしれません。

韓国に、中国に、東南アジアに、インドに、アフリカに・・・。
急速に経済が発展していった地域では、
同時に、キリスト教人口も急速に増加しているのです。

大胆に乱暴に論じてみましたが、
あながち誤りではない宗教社会学的な大胆な仮説なのかもしれません。


北白川 スー

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Wrote up on November 29, 2013.