自分の義を求めて


 家族の不和であったり、地域社会や会社の人間関係のもつれであったり・・・。

 商売や暮らしの経済的なことかもしれません。

 年金や保険について不安と心配で心はいっぱいです・・・。

 将来に不安を覚えているかもしれません。

 自分のプライドや地位や立場のことかもしれません。

 健康にかかわることかもしれません。

 自分を含めて、自分を取り巻く状況が、自分の思っているようには進まず・・・、

 さまざまに不安や心配の種が尽きないのです・・・・・。

 自分のかかわっている人間関係や地域社会は、

 そのような自分を受け入れてくれる状況にはないのです。

 自分の生き方ややり方や考え方に、まわりは冷たいのです。

 私は間違っていないと思っています・・・・・。

 だから、私の心はいつも傷ついているのです・・・・。

 だから、キリスト教の教会なら、

 わたしの義にたいして、肯定的な取り扱いと、

 はげましの言葉が得られるのではないかと、期待して・・・・・、

 教会なら自分の義を立ててくれるに違いない・・・と。

 だから教会のとびらを開けたのです。

 自分の存在に対する肯定的な評価を求めて。

 「あなたは正しい」・・・・・と言う言葉を求めて。


 しかし、残念ながら、イエスは言われた。

 「何よりもまず、神の国と神の義をもとめなさい。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・新共同訳聖書)


 教会が、その人の生き方や、ものの考えた方ややり方にたいして肯定的な言葉やはげましを与えるなら、

 つまり、その人の義を立てるなら・・・・・。

 教会に足を踏み入れた人は、それを期待しているのですが。

 それは、救いにも、罪の赦しにも、神との和解にもつながりません。

 自分の本当の姿を見ることもできないことでしょう。

 聖書・バイブルは、明確に語っています。


 「キリストの血によって義とされる・・・・。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章9節)


 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、

 わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・4章25節・新共同訳聖書)


 ” 自分の義 ” が立たず、傷つき、苦しんでいる人は。

 次の言葉をしっかりと理解しなければならないでしょう。


 「その方が来れば、罪について、義について、

 また、裁きについて、世に誤りを明らかにする。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・16章8節・新共同訳聖書)


 イエスは言われた。

 「父のもとから出る真理の霊が来るとき、

 その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・15章26節・新共同訳聖書)


 決して、自分の義を守り、かばってくれるところが教会ではないのです。

 そうではなく、悔い改めさせられるところだと言っていいでしょう。

 人間には生まれながらに負っている性質があることを・・・知れば。

 傷つき疲れている人にたいして、

 その人の生き方にたいして、

 刺激が強く、

 にわかに受け入れられないようなきつい言葉をかけなければならないでしょうが・・・・・、

 すぐにはこたえられないでしょうが、

 その人のためにも、言葉をにごさず伝えるべきなのです。

 自分のものの見方や考え方が間違っていたことを痛感させられるはずなのです。

 そこで初めて、自分以外に目を向けることができるのです。

 先に、イエス・キリストの言葉を聞いていたなら、

 少なくとも、このような結果にはならなかっただろうと。

 あとになって、自分のやったことについて悔やまないためにも、

 後の祭りにならないためにも、

 取り返しがつかなくならないためにも、

 何かをする前に、イエス・キリストの言葉を聞いておきたかった・・・・・。

 取り返しがつかなくならないためにも。


北白川 スー

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Wrote up: 22 July 2009.