 
聖書・バイブルを抜きにして十字架は語れない
 
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ピアスや胸もとを飾るクロス、
 だからと言って、その人がクリスチャンだとは限りません。
 
 キリスト教には、カトリックやプロテスタントなどがあります。
 この日本では、約1000のカトリックの教会が、プロテスタントの教会は約8000あります。
 教会の礼拝堂の屋根や壁には、
 必ずと言っていいほど、クロス・十字架が飾られています。
 ファッションのクロスや、教会の十字架は、
 日常の見なれた風景となっています。
 
 しかし、どれほどの人が、
 直接には表に出てこない、
 十字架の本当の意味を知っているでしょうか。
 
 かたぐるしく言わなくても、
 日本人の生活に自然にとけ込みなじんでいるのだから、
 本当の意味など知る必要などないという声も聞こえてきます。
 
 見なれた、日常の暮らしにすっかり根付いているクロス・十字架ですが、
 その十字架に込められた内容と、その背景にあるもの、
 その背後にある出来事を、
 ・・ひとりの人がすべての人のために死んだ・・という出来事を、
 イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを、
 どれだけの人が知っているでしょうか。
 十字架が伝えようとしている内容、
 その出来事は伝わっているのでしょうか。
 
 日本のクリスチャン人口と言えば、わずか1パーセント未満です。
 いや、数字が証明するように、
 物としての十字架・クロスは見なれたものであっも、
 その十字架が伝えようとしている内容や意味は、
 いまだに、広く伝わっていないと言えるのではないでしょうか。
 
 教科書にもドラマにも登場する、
 かの有名な宣教師フランシスコ・ザビエル、
 日本へのキリスト教の布教・宣教には長い長い歴史があります。
 しかし、歴史があるキリスト教の布教・宣教活動ですが、
 あきらかな歴史がありながらも、
 依然としてクリスチャンの数が期待される通りに増えないのは、
 そこに何らかの特別な理由があるのではないかとさえ思わされるのです。
 
 日本ではキリスト教の信仰が広まらない、
 何らかの、越えることのできない壁のようなものがあるのでしょうか。
 
 物としての十字架を、クロスを、抵抗を感じないで受け入れてしまう、
 何か、日本人の特質のようなものがあるのでしょうか。
 
 知識を味わいかつ裏打ちされたものではなく、
 なんの疑いも持たず、なによりも感覚や感情が優先しますし、
 強いて言えば、わずかな知識で事は十分なのです。
 
 ですから、キリスト教にたいしても、
 異質なもののように映るのではなく、
 精神性の上での好みの違いだけなのかもしれません。
 
 それとも、日本の地域社会の秩序を維持するために、
 不必要なものとして考えられているのでしょうか。
 
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
 救いを受ける私たちには、神の力です。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章18節・新改訳聖書)
 
 キリスト教と言えば、なんと言っても聖書・バイブルです。
 アダムが登場する、旧約聖書の創世記に始まり、
 新約聖書のヨハネの黙示録に終わる全66巻からなる、
 それは分厚い書物です。
 
 そのバイブル・聖書こそが、神を描き、人間を描き、
 キリスト教の本質や、物の考え方、
 人としてのあり方や生活感覚などが、
 もっともよく理解できる書物なのです。
 
 どうでしょうか、十字架・クロスは、日本人の生活にすっかりなじんでいますが、
 十字架と共にあるはずの、切っても切れない関係にあるはずの、
 聖書・バイブルは、日本人の生活から、感覚から、
 すっかり抜け落ちているのではないでしょうか。
 
 ファッションとしての十字架・クロスは、私たちの生活に根付いていても、
 その十字架が、クロスが伝えようとしている内容と意味とは、
 いまだに伝わっていないのではないでしょうか。
 
 つまり、感覚的に楽しめれば、それでいいのです。
 感性に合わなくなれば、別のものに替えればいいし、
 飽きもすれば捨てればいいわけです。
 聖書という書物を読まなければ、
 胸元にクロスを飾ることができないわけでもないし・・・。
 
 では、何が、私たちから聖書・バイブルを遠ざけてしまったのでしょうか。
 聖書から遠ざかってしまったクリスチャンさえいますから。
 精神性の違いなのでしょうか。
 問題意識の違いなのでしょうか。
 その気になれば、通販でも一般書店でも手に入れることができます。
 
 キリストへの信仰というものを聖書は次のように語っています。
 「実に、信仰は聞くことにより、
 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙10章17節・新共同訳)
 
 信仰の始まりは、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
 信仰とは出来事であって、その出来事が起こらなければ、
 人間がキリスト者に、信仰ある者であることは出来ないのです。
 私たちは、直接にイエス・キリストの出来事を、十字架の出来事は見ていません。
 しかし、その場に居合わせた証人たちによって伝えられる証言を聞くことができるのです。
 それが聖書・バイブルの証言なのです。
 聖書の中で語られる証人たちの語りかけを聞くことによって、
 私たちはイエス・キリストの出来事を知ることができます。
 
 キリストへの信仰は、
 キリストの出来事に耳を傾けることから始まると、
 聖書は語っているわけです。
 キリストへの信仰とは、キリストに耳を傾けることなのです。
 クリスチャンであろうがなかろうが、
 聖書からバイブルから語りかけてくるシグナルを積極的に受け取り、
 読み取る魂の心のアンテナが備わっていないのなら、
 胸元を飾るクロスも、教会の十字架も、
 何の意味も持ちません。
 それはただの「物」、ただの「商品」にすぎないのです。
 
 十字架が語り伝えようとしていることは、
 個人の生活や趣味や好き嫌いの問題ではなく、
 人間共通の問題なのですから。
 
 崇高な精神性の共有なくして、
 人生の目的や方向性は見いだせません。
 開かれた心、聞く耳を持つことなくして、
 人間、孤立していたのでは精神性の成長はありません。
 その意味では、日本はいまだ成熟した社会とは言いがたいのかもしれません。
 何の抵抗もなく、
 ごく日常的に見られるクロスが物語っているのは、
 何ごとも、意味を汲み取ることをしないで、
 感性だけで受け止めてしまう、
 日本人の特質があらわれているのかもしれません。
 北白川 スー
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on  November 11, 2013.