外に、または別に福音は明らかになった



クリスチャンであっても、また、そうでなくても、
人は、自分自身をとりまく状況や、
直接に関わっている事柄の中で・・・。
苦しみ、怒り、悲しみ、迷い・・・思いわずらい・・・。
ときには熱く、または覚めて・・。
ほかの事を忘れてまで、そのことに思い悩んでいます。

当事者たちは雄弁に、その内容を十分に語ることによって、そこから抜け出そうと試みる。
しかし、そこから抜け出すことなどできないでいます。

私たちは感情のとりこになっていると言っていい。

しかし、聖書・バイブルは、私たちに、
私たちが置かれている状況を細かく語ることを求めてはいない。

「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、
あわれんでくださる神によるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・9章16節・新改訳聖書)

聖書・バイブルは、
私たち人間は、なぜにそのような状況に追い込まれているのかを語っている。
そして、そこから抜け出す方法さえ明らかにし、指し示している。

私たちは本来的なことを見落としていることに注意しなければならない。
私たちは、常に周りの状況に惑わされているのです。
私たち自身に惑わされていると言っていい。

聖書が語る福音は、
決して、私たちの心の中から生まれてきた光ではない。

人間たちは、自分たちの心の内にある暗闇を知ることはない。
私たちの本性的な暗闇を知ることなどできないからです。
生まれながらに負っている罪深さは、
決して罪深さを認めることを良しとはしないものだからです。

創造主なる神の・父なる神の、
究極の決断と態度の決定という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
神のひとり子イエス・キリストの、
十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

決して、私たちが求めたから起きたのではなく、
私たちの願いや祈りや望みから起きたのではない。

福音は、創造主なる神自らが、
被造物としての人間を標的にされた出来事なのです。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし、今は、律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしされて、
神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20〜24節・新改訳聖書)

福音とは、
神のひとり子イエス・キリストの、
生と死と葬りと復活とによって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いへの道筋だからです。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on February 03, 2014.