神のさばきを忘れてはいませんか
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”神の裁き”と”救い”とは切ってもきれない関係にあります。
この世界を作られた創造主なる神の、
ご自身のひとり子イエス・キリストの生と死と復活において備えられた・・・
神の裁きからの救いということ・・・・。
衣食住が満ち足りた安定した暮らしを、
神の愛に求めてはいませんか。
信仰を利用して、健康と豊かな暮らしのために、
神を信じてはいませんか。
平安で安定した生活をしたいがために、
そのためだけに神の愛を考えてはいませんか。
つまり、神のさばきを忘れるという過ちを犯してはいませんか。
神は、さばき主であることを忘れてはいませんか。
何のためにイエス・キリストは十字架に死なれたのですか。
神は、そのひとり子の上に、怒りの刃を下されたのではありませんか。
私たちの罪のために・・・。
私たちは、健康と安定した生活のために、
神ならぬ神を作りだしてはいませんか。
もしそうだとしたら、その神は、
人間が作りだした無力な偶像の他のなにものでもありません。
神は、生きておられる存在であることを忘れてはいませんか。
神は、罪を嫌われます。
神は罪を裁かれるのです。
「 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、
民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
また預言者も皆、イエスについて、
この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
(新約聖書・使途言行録・使途の働き・10章42〜43節・新共同訳聖書)
だからこそ、私たちは神を恐れるのです。
はるかに大きく、はるかに高く、はるかに広く、
はるかに深い存在である方だということです。
日々の生活に波風か立たず、
お金にも困ったりすることがなく、
快適で豊かな生活をするために、
神ならぬ神を信じてはいませんか。
信仰とは、神にたいするおそれを知っているということです。
わたしたちは、神にありのままに知られているのですから・・・。
「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 14 October 2011.