暮らしに根付いた信仰


 この日本でクリスチャンと言えば、

 ごくごく少数派に属しています。

 プロテスタントだけでも約8000もの教会が、

 全国の町々に建っています。

 しかし、1教会あたり多くて30名前後のクリスチャンたちが日曜日の礼拝に集まっているに過ぎないのです。

 ごくごく少数派ということは、まだまだ、

 キリスト教の信仰が、広く多くの人たちの生活・暮らしの中に根付いていないことをあらわしています。

 キリスト教の信仰が、暮らしのバックグラウンドになっていないことをあらわしているのです。

 決して、特別なもの特殊なものではなく、

 キリスト教の信仰が生活に根付いて日常化しなければ、

 キリストへの信仰というものが、

 人々の共通した精神性のバックグラウンドにならなければ、

 今後とも、クリスチャンの数が増えることはないでしょう。

 聖書の標準は、

 危機感を持った宣教と同時に、

 危機を回避できた喜びに満ちた信仰生活が同時に進行していることなのです。

 しかし、こと日本では、そのどちらでもないようです。

 この世界は終末へと突き進んでいます。

 いずれこの世界は終わりを迎えます。

 その日、つまりイエス・キリストが再びこの世界に来られるとき、

 その日こそ、神の怒りの日、神の裁きの日なのです。

 生きている人も、かつて生きていた人たちも、

 神の裁きの前に立たなければならないのです。


 「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、

 二度目には、罪を負うためではなく、

 御自分を待望している人たちに、

 救いをもたらすために現れてくださるのです。」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・9章27〜28節・新共同訳)


 この世界を造られた神によって、素晴らしいものとして造られた人間・・・。

 しかし、その父なる神に背いてしまった人間・・・。

 それ以来、地上は呪われ、人間は罪を負って労苦して生きていかなければならなくなったのです。

 神への背きには、必ず報いのときがやって来ます。

 やがてやって来る、必ずやって来る神の怒りの裁きから、

 私たちを救ってくださるのはイエス・キリストなのです。

 この世界を造られた創造主なる神が、

 そのひとり子イエス・キリストの生と死と復活において、

 私たちにそなえてくださった ” 救い ”・・・。

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざにおいて、

 私たちがどのようにして罪から解き放たれ、

 神にたいする罪を赦されたのか・・・・。

 イエス・キリストの十字架の出来事を信じて、

 そのイエス・キリストに信頼を置いたときのみ・・・、

 神は私たちを神の前で正しい者として認めてくださるのです。

 すなわち、神の裁きから救ってくださるのです。

 信仰とはいったいなんでしょうか。

 その裁き主である神を、

 また救い主である神を、

 知ろうとする姿勢こそ信仰そのものではないでしょうか。

 神の怒り・神の裁き・・・、

 そしてその裁きからの救い・・・。

 危機感を持った宣教・・・、

 と同時に、

 危機を回避できた喜びに満ちた信仰生活・・・・。

 この聖書の標準こそ、

 日本をキリストのもとに立ち返らせるものではないでしょうか。

 私たちは神から救われなければならないのです。

 救ってくださるのも神ご自身なのです。


 「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、

 善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、

 人々を説得しようとするのです。・・・・」

 (新約聖書・コリント人への手紙・5章10〜11節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 09 June 2010.