行ないと信仰による義認



聖書・バイブルは、信仰による義認を語りますが、
義認とは、
神に正しい者として認めなければ、
神の前で生きて行けないということです。
しかし日本の教会では、義認の教えよりも、
日本のクリスチャンの信仰の中身は ”行ない ”が中心です。
人はキリスト教の信仰を持つと何かと行為や行動に走ります。
善意からでしょうか・・、
良かれと思ってでしょうか、
正しいと思ってやっているのでしょうか。
なぜかそうしなければならないかのように行ないに走るのです。
確かに聖書は、
・・神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いを与える・・・と。
・・耐え忍んで善を行って、栄光とほまれと朽ちぬものを求める人に、
永遠の命を与える・・・・と語っています。(ローマの人への手紙・2章6〜7節)
しかし、こうとも語っています。
・・人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、
信仰によるのである・・・・と。(ガラテアの信徒への手紙・2章16節)
・・肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。
しかし、霊によって、からだの行ないを動きを殺すなら、
あなたがたは生きます・・・・・とも。(ローマの人への手紙・8章13節)

「けれども、人は律法の実行ではなく、
ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、
わたしたちもキリスト・イエスを信じました。
これは、律法の実行ではなく、
キリストへの信仰によって義としていただくためでした。
なぜなら、律法の実行によっては、
だれ一人として義とされないからです。」

 (新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・2章16節・新共同訳聖書)

信仰するとか、信仰を持つとはどういうことなのでしょうか。
信仰を働かせるとはどういうことなのでしょうか。
キリスト教の信仰の始まりは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事に、
その始まりを持っています。

私たちがうけるべき罰を、
私たちに代わって受けてくださったイエス・キリスト。

それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

そのキリスト・イエスを信じることが、
イエスに信頼を置いて、
イエスに聞き従うことが信仰なのです。
私たちは罪人だから、
罪深い存在だから、
私たちの罪を贖ってくださったイエスを信じることによって、
神の前で義とされるのです。

私たちは罪深い存在です。
実に危うい罪人なのです。
危うい罪人が良かれと思って行為するのは実に危ういものなのです。
私たちの生まれながらに負っている罪深い性質が、
思いとなって、言葉となっと、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。・・・」・・・と聖書が語るように。
 (旧約聖書・詩篇・46篇10節・口語訳聖書)

私たちがイエス・キリストの十字架の死による贖罪という出来事を知ったとき、
おどろきと感謝を覚えたはずです。
それともイエスの十字架の出来事を知らずに信仰を持ったのでしょうか。

どのような状況であっても、
救いはキリストから来るのであって、
私たちが自分たちの救いを作るのではないことを知らなければなりません。

聖書は、
律法の外に、律法とは別に福音が明らかにされたと語っているのです。
決して行ないによってでは救いを得ることはできません。


北白川 スー

関連記事・「キリストへの信仰」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on April 11, 2013.