教会は、誰に向かって話しているのか



 教会は、誰に向かって話しているのか・・・と問うとすれば、

 言いかえれば、

 福音は届いていますか・・・・という、

 教会にも、また教会をとりまく多くの人たちにたいする、

 教会は何をするところなのか、

 教会は何なのかを知らない、

 また知る気持ちもない人たちにたいする、

 問いかけになります。

 教会は、神の意志によりこの世界の中に立てられ、

 神の意志を、

 広く、すべての人たちに向けて語ることを目的としています。

 それも、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を語り知らせるために・・・・。

 決して、人間の管理や処理にゆだねられた、

 社会の中に立っている、

 社会的な役割を持った施設ではないのです。

 教会は、

 神のひとり子イエス・キリストの、

 生と死と葬りと復活において備えられた、

 同時に、神ご自身を、私たちに知らしめられた、

 私たちすべての人間にたいする神の、

 意志や判断に基づいて行動を決定するものなのです。

 創造主なる神と、被造物としての人間という関係において、

 教会は、

 神が、人間のところに来られて、

 人間のものとなられた神の啓示において生まれ起きた、

 神の人間にたいする、

 究極的な選択と決断と態度の決定によって、

 この世界の中に、

 人間の中に立っているのです。


 「 それは、信じる者が皆、

 人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、

 永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、

 世を裁くためではなく、

 御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章15〜17節・新共同訳聖書)


 こと日本のクリスチャン人口は、

 長いキリスト教の布教と宣教の歴史があるものの、

 いまだに1パーセントから抜け出せず低迷しています。

 日本のクリスチャンは、

 いま一度、神の意志というものを、

 再び確認しなければならないかもしれません。

 神の意志が何であるかを。

 確かにそうであることを認めなければならないかもしれません。

 教会において、

 神の意志が、

 神の啓示についての証しを通さず、

 つまり、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を通さずに、

 私たちのところに来るとすれば、

 それは、神の意志でも何でもなく、

 私たちが、神の啓示を信仰によって、

 認識することなどできるものではありません。

 ただ、私たち被造物としての人間ができることは、

 ”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という、

 イエス・キリストの十字架の出来事という、

 神の啓示の証しに基づいて、

 啓示を与えられ、

 受け入れ、

 ただ承認することだけなのです。

 それ以外に教会が礎を基いを持っているとしたら、

 イエス・キリストと何の関係もありません。


北白川 スー

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Wrote up on 08 August, 2012.