神の怒りから救われる・・
救いとは、神の怒りから救われることだと・・・。
そうでないなら、イエス・キリストが十字架の上で死なれたこと、そして復活された出来事は意味を失ってしまうのです。
この世界を造られた神の怒りは、私たちの身代わりとして、神のひとり子イエスの上にその怒りの態度決定と決意を示されたのです。
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、
御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、
神の怒りがその上にとどまる。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書3章36節・新共同訳)
ではなぜ神は、私たちたいして怒っておられるのでしょうか。
この世界を造られ、私たち人間をも造られた父なる神は、
被造物である、神の作品である人間にたいして、
なぜ、怒りを燃やしておられるのでしょうか。
聖書は、人間は、創造主なる神の目にかなった、すばらしい者として、創造されたと語っているにもかかわらず・・・。
しかし、最初の人類であるアダムとエバの物語を思い出してください。
取って食べてはいけないと命じられた果実を取って食べた結果、
神の怒りにふれ、楽園を追放されてしまった私たちの始祖を・・・・。
そして、現在の私たちを見てみると・・・、
神の何たるかをわきまえず、
つまり、この世界を造られた神がどのようなお方であるかが分かっていない、
そしてその神によって造られた、私たちがどのような者であるかも分かっていない・・。
創造主なる父なる神にたいして私たちはどのような態度を取らなければならないのかさえ忘れてしまった私たちなのです。
つまり作品は、作者に栄光を返すものなのだという大原則を無視し続けている私たち人間なのです。
意識して無視しているわけではないにしても、分からないでいる私たちなのです。
そのような私たち人間にたいして、創造主なる神は、はたしてどのように見ておられるでしょうか。
「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義に対して、天から啓示される。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙1章18節・口語訳)
神は天から、その怒りをあらわされても当然ではないだろうか。
しかし、私たちはそれを聞こうとも知ろうともしないのだから・・・。
「そして、死人の中からよみがえった神の御子、
すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、
天から下ってこられるのを待つようになったかを、
彼ら自身が言いひろめているのである。」
(新約聖書・テサロニケの信徒へのパウロの第1の手紙1章10節・口語訳)
やがて来る最後の審判の時でしょうか。
神がこの世界を裁かれる時・・・・。
つまり、主の怒りの日は、イエス・キリストが再び来られる時・・・。
その日は、救われている者にとっては喜ばしい日であっても、
救われていない人にとっては、
最悪の日になるはずなのです。
イエス・キリストこそ、やがてやってくる神の怒りから、
私たちを救ってくださる方なのです。
つまり、メシア・救い主なのです。
「救い」ということを語るとき、同時に「神の怒り」というものを語らなければ、
イエス・キリストを信じる意味を見いだすことはできないでしょう。
日本のキリスト教の教会で、また語られる機会の少ないものなのかもしれません。
それがキリストへの信仰の根幹をなすものであっても・・・・。
私たち人間にたいする神の怒りとさばきと・・・、
そして神の救済の計画の約束を信じなければ・・・・。
それがクリスチャンとしての信仰の中心のはずなのですが・・・。
私たちに向けられた神の怒りを、
私たちに代わって、
そのからだに受けとめられたイエス・・・・。
北白川 スー
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Wrote up: 03 April 2008.