教会の証しとは



死者にたいする供養を重ねなければ、
あの世での死者と、
現世に生きている人間が幸福になれないという教えを持つ宗教もありますが、
キリスト教の信仰は、生きている者への宗教、教えであり、
いくら死者のために供養を法要を重ねても、
”神の怒りの裁き ”に、
いささかも影響を与えるものではないのです。

キリスト教は、生きている者の宗教である以上、
私たちの生きざまが問われているのです。

「 なぜなら、わたしたちは皆、
キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への手紙・5章10節・新共同訳聖書)

神の裁きは、
人の生きざまにより単純明確です。
キリストに聞き従った者は、永遠の命・天国へと移され、
キリストに背いた者は、永遠に続く苦しみへと落とされるのです。
天国か地獄か・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
キリストの死と葬りと復活という出来事は、
人間という存在は、
弱く愚かな存在であることが明らかにするものであり、
さらには、
人間は、神なしでは生きて行けないことを明らかにしているのです。

自分の弱さを補うための信仰という姿勢が信仰ならば・・、
自力ではなく他力によって欲求をかなえようとするなら。
それは御利益信仰のなにものでもないのです。

人間が罪深く本質的に弱く愚かな存在であるがゆえに、
苦しみの時にこそ、神が神であることを身をもって知り、
キリストの十字架の出来事により、
自分の弱さ愚かさを知らされたがゆえに、
苦しみの中でこそ、神との深い関係に入れられるのです。

仮にも、福音ではなく、
福音に拠ることなく人生を語るとすれば。
福音を語るのではなく、
現代社会の中に建っている教会の社会的な役割に関わるテーマが論議されならば、
それは、教会では、
本質的な本来的なテーマが語られていない証しなのです。

キリストの教会は、
現代社会の中にある教会の役割を語るのではなく、
キリスト・イエスの十字架の出来事以来、
掲げ続けているテーマを語らなければならないのです。

「 私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
信じるすべての人にとって、
救いを得させる神の力です。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新改訳聖書)

教会の証しとは、
まぎれもなく神の怒りの啓示であり、
イエス・キリストの十字架による死と葬りと復活によって備えられた救いについて解き明かすものなのです。
神の怒りの裁きからの救いについて・・・・。

「 神の怒りは、
不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、
天から啓示される。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章18節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 04 July, 2013.