あがないによって救われるのは罪人である


 贖い(あがない)によって救われるのは罪人である・・・。

 キリスト教の自明の理としての事柄であるにもかかわらず、

 説明するまでもなく分かりきっているはずの事柄であるところの、

 ”救われるのは罪人である”、罪人だから救いが必要なのだという事柄が、

 イエス・キリストの死が・・・、

 イエス・キリストが十字架の上でその命を落としてまで、

 あがなわなければならなかった事柄として、

 私たちが受けなければならないはずの罰を、

 私たちに代わって引き受けてくださったという出来事が、

 多くの機会をもうけてまで、教会の説教で語られず、

 どんなに少人数の集まりであっても、

 その機会を逃さず、

 くりかえしくりかえし語られないものだから、

 当然にして、信徒たちに理解されないということが起きているとしたら。

 実際そのように理解できる事例にこと欠かないとしたら。

 福音の本質とは、いったい何であろうか・・。

 イエス・キリストを信じて受け入れること・・。

 イエス・キリストを、自分の救い主として、

 信じて受け入れること・・。

 つまり、自分は罪人だから、罪人だからこそ、

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないという出来事を、

 信じて受け入れることによって、

 イエス・キリストの正しさ、義というものが、

 信じて受け入れた者のものへと、

 信じて受け入れる者のものになる、

 イエス・キリストの正しさ・義が、

 信じた者にも、あてはめられ、そのように扱われるということなのです。

 それが ”信仰による義認 ”ということなら、

 信仰によって人は正しい者とされる、ということなら。

 私たちはすべて例外なく、愚かで、弱く、つねに過ちを犯しかねない存在なのだということを、

 認めたくない人にとっては受け入れがたいことかもしれません。

 私たちは、自分の人生や自分自身を、基本的に善なるものだと、

 自分のものの考え方ややり方は間違っていないと考えているはずです。

 人間は、基本的に善良で自由な存在なのだと・・・。

 そうだからこそ、聞く耳も、見る目も、

 あえて自分の意識をおさえてまで、他の言葉に耳を傾け、

 聞いたり見たりはしません。


 なぜ罰を受けなければなない・・・・。

 罪など犯していないのに・・・・・。

 そう思うなら、救いなど必要ありません。

 イエス・キリストが十字架の上で死ぬ必要などないのですから。


 人間は、自由な意志で、人間の可能性を追求するのが、本来の生き方なのだと考える人にとっては、

 イエス・キリストの存在など愚かなことなのです。

 キリスト教は、この世界を造られた創造主から離れていたのでは、

 偏らない見識のある自己認識を持つことはできないと考えます。


 聖書・バイブルは、例外なく正しい人は一人もいないと語っています。

 「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

 善を行う者はいない、ひとりもいない。」

   (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙3章11節・口語訳)


北白川 スー

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Wrote up: 01 May 2008.