 
信仰のデザインの違い
 
- 
- 
この日本、罪深く暗いニュースに事欠かない昨日今日。
 だから清貧でありたいがためにクリスチャンに成りたいと、
 教会に足を運ぶ人たちがいる。
 自分は少なくとも善人だと・・・・。
 
 本来なら、キリストの福音が教会をこの世に立てあげ、
 すべての人を対象として福音が説かれ解き明かされ、
 キリストの福音によって信仰者が生まれるはずが・・・。
 
 この日本の特別な事情は、
 ”福音 ”が語られないところにあります。
 福音によって信仰を持つのではないのです。
 スタートラインが異なるのです。
 立つ位置が違っていると言っていいのです。
 
 すなわち、
 福音を必要としない信仰が日本には存在しているのです。
 
 このデザインの違いがどこから生まれれてくるのでしょうか。
 
 福音とは、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
 イエス・キリストの生と死と葬りと復活によって備えられた救い・・・。
 神との和解の出来事と言われ。
 神の啓示そのものなのです。
 
 信仰を持つということは、
 
 神の啓示を聞き、
 また見た人たちの証しによって建てられた教会において、
 その神の啓示を通して、私たちのもとに届けられた救い・・・。
 
 信仰を持つということは、
 神の啓示の証しに基づいて、
 啓示を与えられ、
 受け入れ、
 承認することによって信仰ある者とされるのです。
 神の啓示を、信仰によって認識することなのです。
 
 信仰を持つということは、
 幸福とか善とか豊かさを約束するものではありません。
 
 聖書・バイブルが知らせる信仰というものは、
 福音を必要とせず、
 人間の感情によって形作られる信仰ではありません。
 
 聖書・バイブルという存在が、
 現在に生きる私たちに神の啓示を語り伝えているのです。
 
 「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
 聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
 また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。
 ・・良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか・・と書いてあるとおりです。
 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
 イザヤは、・・主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか・・と言っています。
 実に、信仰は聞くことにより、
 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章14〜17節・新共同訳聖書)
 
 神のひとり子イエス・キリストは、
 人としてこの世に生まれ、
 私たちの神にたいする罪をその身に負い、
 罪人として十字架にかけられ、
 神は、キリストの上に怒りの刃を下されてのです。
 すべての人の神にたいする罪を贖うために・・・・。
 
 この神への罪が、私たちの思いとなり言葉となり、
 行為や行動となって、神にたいして、人にたいして、
 自分にたいして罪を犯し続けているのです。
 それが現実の私たちの姿そのものなのです。
 
 自分の思うままにならない人たちのための、
 自分の正当性や自己肯定の手助けをするところが、
 キリスト教の教会でも、キリスト教の信仰ではありません。
 
 神の啓示の前では、
 私たちは、ただ静まることしかないのです。
 
 「では、どうなのか。
 わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
 全くありません。
 既に指摘したように、
 ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
 次のように書いてあるとおりです。
 ・・正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
 善を行う者はいない。
 ただの一人もいない。
 彼らののどは開いた墓のようであり、
 彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
 口は、呪いと苦味で満ち、
 足は血を流すのに速く、
 その道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。
 彼らの目には神への畏れがない。・・」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9〜18節・新共同訳聖書)
 
 キリスト教の教会が説き解き明かさなければならない事柄は、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
 
 この世界を創造され、人間をも創造された神が、
 ご自身のひとり子・イエス・キリストの生と死と葬りと復活において備えられた救いについて・・・。
 
 キリストへの信仰を通して、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざにおいて、
 私たちがどのようにして罪を赦され、
 罪深さから解き放たれるされるのか。
 
 やがて必ずやってくる、神の怒りの裁きから救われ、
 この世界を創造された創造主なる神の前に、
 神にある正しい者として立つことができるのか・・・。
 
 しかしこれらのキリスト教の信仰の根幹をなすものが、
 説き解き明かされる機会は、すこぶる少ない稀である。
 北白川 スー
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on  November 06, 2013.