自分の義のために教会があるなら
信仰というものを、
正しい者のために、その正しさを確かなものとするために・・・・、
そのためにあると考えるなら。
自分の義を立てるためにイエス・キリストは死んでくださった・・・と考えるなら。
イエス・キリストの十字架の死はむなしいものとなります。
イエス・キリストは、
「 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、
定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。
善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章6〜8節・新共同訳聖書)
まぎれもなく、イエス・キリストは私たち罪人のために死なれたのです。
私たちを罪の中から救い出すために・・・・・。
罪のため死ぬはずのからだを生かしてくださるために、
イエスは、復活することによって・・・・・、
私たちを生かすために、
復活というものを確かなものとされたのです。
さて・・・・私たちはすべて、誰ひとりの例外もなく罪人だと・・・、
あなたは罪人だ・・と言われて良い気持ちはしませんね。
しかし、私たち人間の現実の姿を見てみますと、
その罪深さは、どこから来るのか知りたくもなります。
私たち人間は、ひとりの例外もなく、
本性的なもの、
生まれたときから負っている罪深さというものが、
私たちの言葉に思いに行為となって、
人にたいして自分にたいして神にたいして罪を犯し続けているのです。
「一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章12節・新共同訳聖書)
聖書は、正しい者はいない、ひとりもいないと語ります。
全世界が神の裁きに服するようになるとも語ります。
その神の裁きから救ってくださるのが、
神ご自身なのです。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業(あがないのわざ)を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章24節・新共同訳聖書)
私たちは、もともと自分の義などありません。
私たちは、何らかの理由で傷つき疲れ苦しんでいても、
それは自分の義によるものではありません。
人間は、ひとりの例外もなく罪人なのです。
すべての人は罪の下にあるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 11 November 2009.