キリストは、なぜ十字架に張り付けになっているのか



キリスト教と言えば、
キリストが十字架に張り付けになっているイメージが浮かびます。
キリスト教が言う神は、
天地万物を創造された創造主なる神であり、
人類をも創造された、唯一の神であり全知全能の神・・、
何でも知っており何でもできる神なのです。
私たち日本の暮らしでは、
いちいち数えることのできないほどの八百万の神々が、
社会生活の局面局面に私たちの心の中に、
また暮らしの中に登場します。
そして、それらの神々は、私たちの心を支配する力を持っています。
日本でのキリスト教の布教は、それは長い歴史があります。
キリシタン迫害の歴史もあります。
しかし、いまだにキリスト教の教会の礼拝に集まる人たちは、
全人口の1パーセントにも満たないのが現実なのです。
どうも、日本の古来から伝わる暮らしに根差した精神性には、
日本にキリスト教が広まらない理由が隠されているのではないだろうかとさえ思わされます。
キリスト教の信仰における肝心かなめなものとして要素・・、
唯一の神を信じてあがめて行くという、
その神を、何事においても強い影響力を持ちうる理想的な存在として、
強く気持ちが引きつけられるように働いていないのかもしれません。
聖書・バイブルにおいて、
”救いと恵みの神 ”として、ご自身を啓示されている神は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの”生と死と復活 ”という、
神のひとり子・イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事においてご自身の決意と決断と態度の決定という・・・。
”神の怒りの裁きの判決から ”私たちを救うために、
神が人となられて、イエス・キリストとしてこの世界に生まれ来られたのです・・・。

「 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
・・見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を整えさせよう。・・」

 (新約聖書・マルコによる福音書・1章1〜2節・新改訳聖書)

宗教美術であっりハリウッド映画であったり、
テーマとして盛んに取り上げられる・・・。
十字架にかけられたイエス・キリスト・・・。
では、なぜ、ののしられ、はずかしめられ、ムチ打たれ、
十字架に手足手首を鉄くぎで打ち付けられ、
苦しみうなだれるイエス・キリストなのでしょうか。
その理由を、日本人はひとときも考える時があるでしょうか。
なぜ、イエス・キリストなのか。
なぜ、神のひとり子なのか。
なぜ十字架にキリストが張り付けになっているのか。
あまりにも、その理由を知らない、
また知らされない、
キリストの十字架の背景を知らない私たちの社会ではないでしょうか。

「「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、
そこで人々はイエスを十字架につけた。
犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
〔そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」〕
人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」

 (新約聖書・ルカによる福音書・23章33〜34節・新共同訳聖書)

・・父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。・・


北白川 スー

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Wrote up on November 16, 2012.