復活のない信仰はむなしい
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 キリスト教の信仰は、その名が示す通り、
 イエス・キリストの出来事が原因となって、
 イエス・キリストの死と、葬りと、復活という出来事が、
 信仰の、そもそもの原因なのです。
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・。
 信仰の中身に、
 イエス・キリストの十字架の出来事を含まない信仰があるとすれば、
 その信仰は、キリスト教の信仰でないかもしれません。
 「 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、
 あなたがたの信仰は空虚なものとなり、
 あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・15章17節・口語訳聖書)
 「 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、
 あなたがたの信仰はむなしく、
 あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・15章17節・新改訳聖書)
 キリスト教の信仰は、
 死と復活ということがなければ成り立ちません。
 新しい命を得るという信仰、
 新しくされるという信仰、
 新しくされるためには、
 古い自分を死にわたさなければ、
 復活もなく、新しくされることもありません。
 もしも、自分の生き方に固執するなら、
 自分の思いや考え方ややり方に、
 こだわり続けるならば、
 それは、キリストの信仰ではありません。
 「 だれでもキリストのうちにあるなら、
 その人は新しく造られた者です。
 古いものは過ぎ去って、
 見よ、すべてが新しくなりました。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・新改訳聖書)
 古い自分を、
 キリストと共に、
 十字架につけ、
 死にわたさなければ、
 そして、キリストと共に復活しなければ、
 新しい自分に生まれ変わることなどできません。
 何の希望も建設的なものがないなら、
 その信仰は空しいものなのです。
 しかしながら日本の信仰となると、
 どうも事情が異なるようです。
 多くの場合、
 自分の生き方にたいして肯定的な、
 あなたの生き方は間違ってはいません・・・という、
 肯定的な言葉と励ましとを求めて、
 教会に人はやって来るからです。
 自分にたいする評価を、
 自分の価値観にたいする評価を、
 自分の生き方が肯定されることを求めて・・・。
 これでは、キリストの死と復活は意味を失ってしまいます。
 「 そして、キリストが復活されなかったのなら、
 私たちの宣教は実質のないものになり、
 あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・15章14節・新改訳聖書)
 日本にキリスト教が広まらない原因が、
 ここにあるのなら・・・・。
 つまり、キリスト教の教会において、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の、
 内容と意味とが解き明かされていないということになります。
 「 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、
 三日目に復活することになっている、
 と言われたではないか。」
 (新約聖書・ルカによる福音書・24章7節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on  April 08, 2012.