なぜ日本ではキリスト教の信仰が広まらないのだろうか。
何が押しとどめているのだろうか。
何がキリストの福音を聞いたり理解することを妨げているのだろうか。
キリスト教の信仰とは、いったいどういうことなのだろうか。
信仰とは、
自分の弱さ愚かさを認め、
自分にではなく「主」なる神に信頼を置いて生きていこうとする姿勢そのものであると言っていい。
自尊心を満足させるようなものではなく、
まったくその逆である。
一度、ぎゃふんという目にあって、
自尊心を徹底的に、
二度と立ち上がれないほどに、打ちのめされなければ、
神を見ることはできない・・・。
イエス・キリストは言っている。
「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。
人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
(新約聖書・マルコによる福音書・7章14〜15節・新改訳聖書)
人はたいてい、
自分の自尊心・プライドから、自分の主義主張を、あくまで引っ込めたくない気持ちがあるものなのです。
自分の弱さ愚かさを認めたくはない・・・・決して。
心では、歯がゆいほどに自分に腹が立っていても、
今の状況を招いたのはすべてまわりのせいにして、
自分自身への反省はひとかけらも無い、
いや、自分の不甲斐なさであることを重々承知してはいるものの、自分のせいにはしたくないのです。
認めれば楽になるのではあるが・・・・・、
この、かたくなな心は、
だれ1人の例外もなく、人間が生まれながらに持っている罪深さを指しています。
日本の多くの人は、それすら気づいてはいないはずです。
生まれながらに持っているものとは認めようとはしないのです。
それどころか、自分の気持ちを満足させるものを求め期待しようとします。
それを教会に求めることすらします。
人の常は、自分のいやなところを見たくはないのです。
自分を疑うこともしない・・・・・。
自分自身の非など、
自分のものの見方や考え方が道理に合ってないなどとは考えもしないし疑うこともしない・・・・・。
自分の非など、存在しないし、決して事実ではない。
しかし、
人間がもともと持っている罪深さというものがなければ、
福音・・良き知らせ・・というものは意味をなさないのです。
すべての人間が罪深さから、逃げることも救われることもできない状態でなければ、
救い主・メシア・キリストが、
この世界に生まれ来る必要などどこにもないのですから。
「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、
全世界に宣べ伝えられる。
それから、終わりが来る。」
(新約聖書・マタイによる福音書・24章14節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 16 May 2009.