神との忘れられた記憶
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創造主なる神は、
人間を素晴らしい存在として創造された。
しかし、最初の人間アダムが神に背いたため、
最初の人間に続く、すべての人類は、
ことごとく罪を背負って生まれてくることとなった。
それだけではない、神との関係すら、
神との間に深い溝ができてしまった。
人の心の中にあった神の存在・神の場所さえ忘れ去られてしまった。
常にその存在が意識にあったものが、
神を意識しなくなってしまった・・・・。
それだけではない、
創造主に守られ育てられた、
生きる喜びさえ空白の過去に埋もれ去ってしまった。
それが、私たちの姿なのです。
「そのとき、・・これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者・・と言う声が、天から聞こえた。」
(新約聖書・マタイによる福音書・3章17節・新共同訳聖書)
・・わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ・・・
しかし、あの声を聞いたなら、
忘れられた記憶が、
捕えられずに消えてしまっていた、
あの記憶の断片がよみがえってくる・・・。
それだけではない。
再び、生きる希望がよみがえってくる。
意識されなくなった神の存在、
心の中にあった神の場所さえ失ってしまった私たち・・・。
キリスト教の信仰とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ・・、
によって現わされた、
神の究極の選択と態度の決定という出来事のなかに、
被造物としての人間にたいする、
創造主なる神の愛が現わされているのです。
創造主なる神に背いたため、神の怒りの裁きが待っている人間たち。
その神の怒りの裁きから救うのが・・・。
人間に代わって、神の怒りの裁きをその身に受けてくださった、
イエス・キリストに聞き従う信仰のみなのです。
北白川 スー
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Wrote up on January 23, 2014.