救われていない人へ



あなたは救われていないかもしれません。
たいへんな危機の中にあるのです。
キリスト教が言うところの ”救い”とは、
まぎれもなく、神の怒りの判決、それも有罪判決からの救いを意味しています。
最初の人間であるアダムが、神に意志に背き、
取って食べてはいけないと命じられていた、
善悪の知識の木の実を取って食べた・・・というエデンの園の出来事のため、
地は呪われ、人間の生に死が入り、地上を労苦してさ迷い歩くこととなり、
地上の世界はさまざまな罪に満ちることとなったのです。
アダムに続くすべての人間は罪を負うことになりました。
それを ”原罪・ゲンザイ”と言います。
私たち人間が生まれながらに負っている罪深い性質のことなのです。
この性質が、思いとなって言葉となって行為や行動となって、
自分にたいして人にたいして神にたいして罪を犯し続けているのです。
この神にたいする罪には、当然のこととして裁きが待っています。
キリスト教は終末論に立っていますので、
必ずやって来る、この世界の終わりの時、
生きている人も、かつて生きていた人も、最後の審判・神の裁きが待っているのです。
だれひとりの例外もなく、神の裁きの座に立たされることになります。
天国か地獄かの判定が待っているのです。
罪を取り除かれ、永遠に続く命へ移されるのか、
それとも、罪の意識に苦しみ続ける地獄へか・・・。

「 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、
ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章9〜10節・新共同訳聖書)

神の怒りの判決からの救いこそ、
キリスト教が言うところの救いそのものなのです。
しかし、すべての人は有罪なのです。
現実の私たちは、アダムの罪を引きずっている以上、
神の怒りの下に生きていると言っていいでしょう。
それが現実の世界なのです。罪に満ち満ちた・・・・。
まったく望みなどない絶望的な状態にあるのです。
しかし、私たち人間は創造主なる神の作品です。
作品は作者に栄光を返すために創造されたのです。
ですから、そこに作者の愛があります。
作品は、見捨てられることはありません。
そこに、罪の赦しが存在しているのです。
しかし、罪は罪、その罪を償わない限り赦しはありません。
罪が取り除かれなければ、
神の裁きから救われることはできません。
ここに、神の愛の出来事が起きました。
それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
神ご自身のひとり子・イエス・キリストの生と死と復活という出来事において備えてくださった ”救い”なのです。
このキリストの贖いのわざにおいて、
私たちがどのように罪を赦され、罪から解放されたか・・・、
これこそが福音の中身なのです。
ここにキリスト教の信仰があるのです。

「 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章23節・新共同訳聖書)

罪に満ちた世界に生きている以上、罪からは解放されません。
常に罪の誘惑と危険が待ち構えているからです。
しかし、イエス・キリストを信頼し、
イエス・キリストに聞き従う信仰によって、
この罪の世界を生きていけるのです。
罪を赦され、永遠の命へと移される希望に生きていけるのです。

「 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章1節・新共同訳聖書)

罪の世界に生きているかぎり、罪を犯す危険性に満ちているわけです。
しかし、罪を犯したと自分を責める必要はありません。
罪を認めない神のひとり子イエス・キリストが十字架に罪人として、
私たちのすべての罪をその身に負い、
死して、罪を贖ってくださったのです。
自分を責める必要はありません。
過去に犯した罪も、今も犯し続けている罪も、
これから犯すかもしれない罪も、
キリストは、その罪を命をもってつぐなってくださったのです。
だから、イエス・キリストを信頼し、
イエス・キリストに聞き従う信仰のみが残されているのです。


北白川 スー

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Wrote up on November 21, 2012.