なぜイエス・キリストは十字架に張り付けになっているのか



意識しようがしまいが、日本人の暮らしには、
いちいちかぞえることのできないほどの八百万の神々が、
また、代わり映えのしない占いのたぐいが、
暮らしの局面局面に、社会生活の中に、
心のうちに登場します。

キリスト教は、天地万物を、
人間をも創造された全能なる唯一の神を信じあがめる信仰です。

日本のキリスト教の布教には、それは長い歴史があります。
また迫害の歴史もあります。
長い歴史のわりには、
いまだにクリスチャン人口は1パーセントにも満ちません。

日本の古来から伝わる暮らしに根ざした精神性に、
キリスト教が広まらない何かの理由が隠されてでもいるのでしょうか。

日本人の精神性には、
キリスト教における原則的で根本的なものとしての要素、
”唯一の神 ” にたいして、
理想的な存在として気持ちが強く引きつけられるように働かないのかもしれません。
唯一の神というものがなじまないのです。
唯一というものに疑いさえ持ちもします。

聖書・バイブルは、救いと恵みの神として、
すでにご自身を啓示していると語ります。

神が人となってこの世に来られたという出来事であり、
すなわち、イエス・キリストが、
私たちの救いのために来られたという出来事なのです。

神のひとり子イエスとして、
神は人となって、罪に囚われ、罪に縛られている私たちを、
神の怒りの裁きから、
有罪を言い渡される私たちを、
救うためにこの世界に来られたのです。

神の怒りの裁きから救うために・・・・。
何のことだか分からないと言う人の多い日本です。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

映画にもなり絵画にもなっている、
十字架と十字架に手首を足首を釘付けされ、
苦しみうなだれるイエス・キリスト・・・。

どうしてイエスは十字架にかけられたのか、
その理由を、
多くの日本人は、
わずかでも考えたことがあるでしょうか。

イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを、
説かれ解き明かされる機会の少ない日本ではありますが、
十字架にはりつけになったイエス・キリスト、
あまりにもその意味を、理由を、その背景を、
知らないのが日本の社会なのです。

日本の精神風土に合わないなじまないと言えども、
説かれ解き明かされなくては、
知ることさえできないのです。

「・・主の名を呼び求める者はだれでも救われる・・のです。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章13〜14節・新共同訳聖書)

核心は、神の怒りの裁きからの救いなのです。
有罪の宣告から私たちを救うために。
キリスト・イエスは、この世界に生まれ来られた。
まったく聞き覚えのないキーワードです。


北白川 スー

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Wrote up on November 25, 2013.