キリスト教の十字架の意味



クリスチャンとして生きていくために切っても切れない関係にあるもの、
それが、イエス・キリストの十字架です。
キリスト教の信仰のすべてをあらわすものだからです。
しかし、キリストの十字架の意味を理解しないままクリスチャンとして生きている方も多くおられます。
キリストの十字架とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事にあらわされた十字架なのです。
なぜ、罪を認めない神のひとり子イエス・キリストが、
罪人として十字架にかけられ死刑となったのでしょうか・・・。
必ずやってくる世界の終わりのとき、
生きている人も、かつて生きていた人も神の裁きが待っています。
私たちを”神にたいする罪の結果 ”から救い出してくださる、
神の怒りの裁きから救ってくださる、
私たちに代わって、ご自身の命をささげることによって、
私たちの神にたいする罪の代価を支払ってくださった、
キリストの十字架の死による贖いのわざにあらわされた十字架なのです。
私たちは生まれたときから罪深い性質を負って生まれてきます。
それを”原罪 ・げんざい”と言います。
それには原因と源がありますが・・・。
ですから、気付かず常に罪を犯し続けているのです。
しかし、罪の意識に苦しむことはありません。
なぜなら、キリストの十字架の出来事を受け入れ承認することによって、
罪の裁きから解き放たれているのです。
イエスに信頼する、イエスに聞き従う信仰によって、
罪は赦されているのです。
だからと言って、罪を犯し続けても良いのではなく、
自分の犯した、犯し続けている罪を認識し理解し、
常に神の前で罪の事実を告白する必要があることは言うまでもありません。
私たち人間は、この世界に生きている以上、
罪の中に存在し続けているからです。

 「 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・10章38節・新共同訳聖書)

イエス・キリストが、私たちに代わって、
神の怒りを受けられたことによって、
私たちに神の怒りが及ばなくなったわけです。
しかし、無条件ではありません。
この出来事を受け入れ承認し、
言いあらわさなければ効力は生まれないのです。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)

このように、キリストの十字架にあらわされた具体的な事柄が、
キリスト教の信仰の根幹をなすものなのです。
しかし、こと日本では、罪を犯した人にたいする制裁によって、
罪が償われたとは考えない民俗があります。
過失にたいしては、再教育という機会を与えることによって、
本人が心を入れかえ、出直しするチャンスを与えるのです。
なぜなら、人間というものは、もともとけがれのない状態で生まれてくると考え、
社会の悪や環境によって悪くなると考えるからです。
ですから、キリスト教の価値観である、
肉体的な苦痛を加えることによって罪が償えるという考えは、なかなか理解されません。

「 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、
異邦人には愚かなものですが、」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章23節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 20, 2012.