人が作るご利益信仰



神や仏や宗教の力を借りてまで、
祈りに答えてくださると思って、
自分の望みや願いを、
自分の思った通りに実現させようとするなら。
ご利益信仰と言われても仕方がない。

クリスチャンであっても、同じように求めるなら、
同じことが言えます。
しかし聖書・バイブルは次のように語っています。

「わたしたち強い者は、
強くない者の弱さを担うべきであり、
自分の満足を求めるべきではありません。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・15章1節・新共同訳聖書)

自分だけを喜ばせることをしてはいけない・・・と言っているのです。

ここで言われている強い者とは、
権力や、経済的に豊かな力を持っていることではありません。
他の人のために、持っている自由さえガマンして、
相手のことを思って使わず、耐え忍び、
犠牲を払ってもいいと考えることなのです。

「キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・新共同訳聖書)

ときとして人は、
神を天から引きずりおろす勢いで、
自分の思いに同意を与えてくれるところが、
自分に有利に事が運ぶところが・・・教会だと。
それをキリスト教の教会に求めてやって来られます。

イエス・キリストを深く知ったうえではなく、
人間を救う神の正しさを悟らないで・・・。
ただ自分の可能性を信じて、
自分の正しさを求めるだけに、人は教会にやってきます。
それでは、ご利益信仰だと言われても仕方がありません。

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
私たち誰もが果たし得ない行為なのです。
人を救うのは人ではなく神なのです。

はっきりさせておく必要があります。
聖書・バイブルは、
人間の性質としての ”原罪 ”というものを明らかにしています。
私たち自身の中に最初からあるもの、
生れたときから負っている性質、
私たちの、あらゆる思いや行為のみなもと、
私たちの本性、生まれながらの性質としての罪深さ。
人間の本性的な姿というものです。

交通違反したとか倫理に反したとかいうものではなく、
私たちが、ときどき過ちを犯すから罪深いのではなく、
私たちの具体的な行為よりも、
さらに根の深いところにあるものなのです。
それが原罪であり、
すべての思いや言葉や行為に影響を与えるみなもとなのです。

神は、罪の中をさ迷い歩いている私たちにたいして、
救いの道を明らかにされ、
その道を与えるために来られたのです。

それがイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事なのです。
神が、ご自身のひとり子イエスをして明らかにされたものなのです。

神や仏にすがってでも、
自分の望みや願いを実現したい思っている人は、
その人が味わっている苦痛や困難というものは、
そしてそれが長続きしているのは、
自分を愛し、今の自分を失いたくないという、
かたくなな心の状態から、
解き放されないでいる、その姿こそが、
そもそもの原因なのだと気付いていないところから来ているのです。

自分の思いに同意を与えてくれるものを、
探し求めている姿勢そのものを捨て去ることから始めなければ、
苦境や困難から脱出の道も明らかにはなりません。

そこには、自分の弱い姿があるだけなのです。

キリスト・イエスは、そのようなあなたのために、
犠牲を払い、耐え忍んで十字架に死なれたのです。

キリスト教の信仰とはなんでしょうか。
自分の弱さを認めるところから始めなければ強くはなれないのです。
信仰とは、人生と共にあるものです。
キリストの導きなくして、
人生の目的や方向性は明らかにはなりません。
より良き人生を送ることはできないのです。

「それから、弟子たちに言われた。
・・・わたしについて来たい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。
人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。・・・」

(新約聖書・マタイによる福音書・16章24〜26節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 13, 2013.