福音が語られなければ何も始まらない
福音すなわちイエス・キリストが、
またそれが神の恵みとして、
神の永遠の言葉が、
私たちの周りで何が起ころうが、
初めから終わりまで、
つねに何ひとつとして変わらない神の言葉が、
その神の言葉が ”肉 ”となったという出来事が、
神が神であることをやめられたのではなく、
同じ人間として私たちのところに来られたことによって、
私たちが知ることができるようになった出来事・・・。
ときとして私たちは、
自分自身に語って聞かせる福音を考えます。
自分の必要であり、不安を取り除くために、
経済であり、健康であり、人と人との人間関係であったりと、
自分自身に語って聞かせる福音を考えます。
それが救いであり福音だと。
しかし福音は、そうではない。
” 神の永遠の言葉が肉となったという出来事 ”の他のなにものでもないのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の他に何も存在しないのです。
不安を抱え必要を覚えて人は教会に足をはこびます。
しかしそこで、
イエス・キリストの十字架の出来事が語られていないのなら。
人は、福音とは、
自分の必要を満たし、不安を取り除くものだと考えるでしょう。
自分にたいする、はげましや、なぐさめだと考えるでしょう。
では、なぜ、神のひとり子イエスが、
人として、この世界に来られてのでしょうか。
なぜ、十字架にかけられ死刑になったのでしょうか・・・・。
この世界を造られた神は、
私たち被造物である人間にたいする神の裁きを、
私たちに代わって、
ご自身の御子イエスに、
その怒りの刃を下されたのです。
何のために・・・・。
私たち被造物としての人間は、
創造主なる神にたいして背きの罪を犯しました。
神にたいして罪を犯したからです。
メシア・救世主・キリストである神のひとり子イエスが、
この世界に生まれ来られたということは、
神の目から見て、
この世界は、私たち人間をも含めたこの世界は、
神の目から見て、堕落していることをあらわしているのです。
私たちはときどき過ちを犯すから罪深いのではなく。
もとからして、生まれたときから、
常に罪深いから、ときどき罪を犯すのです。
この信じがたい・・・人間の本性・・・。
たえず新しい罪を犯し続けている私たち人間・・・。
罪の中を歩んでいるかぎり、
神によって裁かれる、審かれる存在なのです。
しかし・・・、
私たちの罪のために、
私たちに課せられる刑罰を代わって担ってくださった神のひとり子イエス・キリスト。
そのイエス・キリストが人である限り・・・。
また、” 人としてのイエス・キリストの信仰 ”によって・・・。
人間の裁きと亡びにたいして・・・、
神が神であることをやめられたのではなく、
イエス・キリストご自身が、
その裁きと亡びとを受けられたことにより・・・。
私たち人間は、
そのイエス・キリストを信じる信仰によって。
滅びと裁きではなく、
神によって正しい者として、
神によって義とされ、神に受け入れられるのです。
「キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、
『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜11節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 03 February 2011.