イエス・キリストの十字架の出来事が明らかにされてこそ


 キリスト教の教会の案内のビラやチラシであったり、

 キリスト教関係のインターネット・サイトなどで、

 よく用いられている文言やキーワードやテーマなどには・・・。

 聖書・バイブルに書かれている文句や、

 キリスト教の教会の礼拝で使われる言葉から引用されるものが多く、

 聖書・バイブルやキリスト教や教会についての情報の少ない、

 または知らないノンクリスチャンにとっては、

 寄せ付けがたい、

 何か、知っている者しか入れない、

 取り付きの悪さ、とっつきの悪さを覚えさせます。

 キリスト教について知らない者にとって、

 また知らされていない者にとって、

 取り付く手がかりとするものが、こむずかしく、

 中に入ることをためらわせるものがあります。

 さらに、テーマとしてよく取り上げられるものとして、

 どのように信仰すれば良いのか、好ましいのか・・とか。

 クリスチャンとしてどうあるべきなのか・・・。

 このようなテーマは、

 正当性があるように見えて、

 裏をかえせば、偽善的で、

 ご利益信仰の走りかもしれないと思わせます。

 どのように信仰すれば好ましく良いのか・・・、

 このようなテーマは、一歩方向性を間違えば、

 キリスト教の信仰は、

 うわべを飾り装って、

 心や行いが正しい者のように見せかけるものが含まれていると、

 そのように見る人を作りかねないのです。

 自分だけ、自分たちだけ、神が与える恵みを得ようとするなら、

 それは、まぎれもなくご利益信仰でしよう。

 クリスチャンが嫌いだとか、キリスト教が嫌いだとか、

 教会が嫌いだという人を作ってしまうのは、

 やはり、教会の、またクリスチャンの責任に違いありません。

 イエス・キリストの十字架は、

 すべての人に向けて輝いているはずです。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事は、

 まぎれもなく、”ひとりの人がすべての人のために死んだ”という出来事です。

 この出来事は、すべての人に向かって語られ伝えられるものなのです。


 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、

 主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・11章26節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストは言っています。

 「それから、イエスは言われた。

 全世界に行って、

 すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 (新約聖書・マルコによる福音書・16章15節・新共同訳聖書)


 どのように信仰すればいいのか、ではなくて。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の内容と意味とが語られることが、

 キリスト教の信仰にとって決定的な事柄であるはずなのです。

 イエス・キリストの十字架の出来事を聞いて初めて、

 自分の弱さみじめさ愚かさに気づかされる・・・・。

 すべての人間は、神にたいして大きな負い目を負っていることを気づかされるのです。

 そうしてこそ、神の前にひざをかがめて、

 神にたいして低い姿勢をとることができるのです。

 この世界を造られた創造主なる神をあがめることができるのです。


 「それは、イエスの御名によって、

 天上のもの、地上のもの、地下のものなど、

 あらゆるものがひざをかがめ、

 また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、

 栄光を父なる神に帰するためである。」

 (新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章10〜11節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 21 February 2011.