イエス・キリストが、なぜ恵みなのか、なぜ贈り物なのか


 私たちは、ひとりの例外もなく、神に背いている。

 人間の始祖であるアダムが、この世界を造られた神に背いたときから、

 私たちは、神に背き続けている。

 それが現実の私たち人間の姿・・、

 混乱と混沌の中に暮らしを営んでいる姿そのものなのです。

 私は背いていない、罪など犯していないと言いはる人がいたとしても、

 神に聞こうとしない以上、

 つまり、神を信じるということは、

 神に信頼することであり、

 神の言葉以外のなにものも聞かないことであり、

 神以外の言葉に聞く耳を持ち合わせていないことなのです。

 人が自我にかかわり続けるなら、

 人生に悩み、自分に悩み、自分の生き方に悩み続けるなら・・・、

 自分以外の事柄に心を閉ざしてしまうなら。

 自分の思いに思いめぐらし、神に聞こうとしないなら、

 自己を主張し自我を捨て去ることに抵抗しつづけるなら、

 自分の生き方、考え方、やり方にたいして、

 その通りで間違っていないという、はげましを人から得たいのなら、

 信仰以外の動機が働いているかぎり、

 決して神の前に立つことはできない・・・・・・。

 しかし、この世界を造られ、私たち人間をも造られた神は、

 決して神の愛を放棄し、忘れられたわけではない。

 作者としての愛を、創造主としての愛を、父としての愛を忘れたわけではない。

 その証拠こそ、

 神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざなのです。

 この出来事こそが、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

 私たちはイエス・キリストの十字架の出来事を通してのみ、

 私たちにたいする神の愛を知りえることができるのです。

 自然現象や自然の造形から神を思うのではなく、

 イエス・キリストの十字架の出来事から神を知ることができるのです。

 キリスト教の教会が、

 弱さを訴える人たちに同情し、

 なぐさめの言葉を与えることにだけ終始するなら、

 教会は、世俗となんら代わりばえのしない所となってしまう。

 教会は、神と人間との違いを、

 神と人間との無限に広がる質的な違いをわきまえていなければならない。

 またそれを明らかにするところなのです。

 教会は、ただ神の啓示を明らかにするところだからです。

 教会が世俗と同じ価値観にあるなら、それは教会ではなくなってしまう。

 私たち人間は互いに罪人であることを忘れてはならない。


 「 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、

 すべて信じる人に与えられるものである。

 そこにはなんらの差別もない。

 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

 彼らは、価なしに、神の恵みにより、

 キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章24節・口語訳聖書)


 教会の目的は、この地上に神の国を建設することではない。

 ただ、”御国が来ますように”と祈ることができるだけなのです。

 つまり、イエス・キリストが再びこの世界に戻って来られることを待つ望み・・・・。

 神の審判のときを恐れおおのいて待つことだけができるのです。

 神の言葉の実現をただ信仰をもって待つことだけができるのです。

 ただし、イエス・キリストに信頼をよせる者は、

 やがてやって来る神の審判・裁きから、

 神の怒りから救われているのですから、

 やがてくる御国を、再び神の支配が確立することを、

 喜びと希望を持って待つことができるのです。


 「わたしは去って行きます。

 あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。

 わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・8章21節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 03 June 2010.