何よりも先ず十字架の
 何よりも先ず、イエス・キリストの十字架の出来事が語られなければ、
 何よりも先ず、
 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事が語られなければ・・・・、
 人は、自分は正しく、すべてにおいて他の人と平等に扱われなければならないのだと主張することでしょう。
 自分は正しく公正であると。
 だから助けられ救われなければならないのだと・・・・・。
 当然のように神の助けが得られるものなのだと・・・・・。
 自分の考えや立場を認めさせようと押し通すものなのです。
 では、なぜイエス・キリストは、
 手首足首を十字架に釘で打ち付けられ死刑となったのでしょぅか。
 なぜそれが贖い(あがない)の出来事だと言われるのでしょうか。
 イエス・キリストは、すべての人のために死なれたのです。
 私たちの罪深さを贖うために・・・・・・・。
 私たちは義でも公正でもありません。
 神の前では罪人なのです。
 その罪から救われなければ、
 罪の赦しがなければ・・・・・。
 正しい者として神の前に立つことなどできないのです。
 「 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
 決してそうではありません。
 私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。
 『 義人はいない。ひとりもいない。
 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
 善を行なう人はいない。ひとりもいない。』」
 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章9〜12節・新改訳聖書)
 信仰というものが、自分の正当性を認めさせ、
 自分の義を確立させるためのもののように考えられ見られているのなら、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという、
 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事は、
 私たちの罪の代価を、その命によって支払ってくださったという出来事は・・・・、
 意味を持たなくなってしまうのです。
 すべての人間は、
 生まれたときから罪深い存在なのです。
 すべての人が罪の下にあるのです。
 だから、神の裁きが待ち受けています。
 だから、罪の赦しと、
 神の怒りから救われなければならないのです。
 私は罪など犯していないと思っていても、
 自分が公正であり義に真実に生きていると信じていても・・・。
 その考えをくつがえすものこそ、
 今までの価値観を根本的に否定せざるを得ない・・・、
 まったくもって、ひっくりかえさせられる出来事こそが、
 イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
 多くの日本人は、偽りの自分の義にしがみつき苦しんでいます。
 だからこそ教会は、その義が、偽りであり、まことの義こそイエス・キリストにあることを知らせなければならないのです。
 それこそがイエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事であり、
 そのイエス・キリストに全面的に信頼をよせることが、
 まことの平安を手にすることであり、
 まことの信仰であることを示さなければならないのです。
北白川 スー
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Wrote up: 01 November 2009.