教会のアットホームは人を疎外する



何か難しいことを言うようですが、
日本では、家庭にいるときのようなくつろいだ、
アットホームを売り物にしている教会は多いものです。
しかし、教会のアットホームは、
教会の外の人たちを、
のけ者にする危険性を持っているのです。
教会のアットホームが強ければ強いほど、
教会の扉を閉ざすことになります。
教会を社会の中で孤立させかねないのです。

人はさまざまな重荷や事情や問題を抱えて、
また負って教会に足を向けるものです。
しかし、教会の教会員同士の結束が強いとすれば、
外の人間としては、
教会にとても入りづらいものです。

キリスト教の教会は、
教会の外の世界にたいしての働きかけを、
経済であれ教育であれ暮らし向きであれ・・・、
聖書的な価値観を持って働きかけなければなりません。

聖書的な価値観を、
聖書的な倫理観を、
個人であれ、共同体であれ、社会であれ、
情報として発信し続けなければなりません。
信仰という形で根付かせなければならないのです。

それが福音の宣教というものです。
教会が開かれた存在として、
教会の外に向けて福音という情報を発信し続けなければならないのです。

私たちは、キリスト教の信仰というものは、
何かをすることだと、
行為や行動をともなった、
何かをすることだと理解しています。
社会的な役割とか、奉仕とか・・・。

しかし聖書が語っているのは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。

このイエス・キリストの十字架の出来事は、
神が、どういうことを成されたのかということなのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

このイエス・キリストの十字架の出来事は、
決して教会のアットホームを言っているのではありません。
呪われた地上と、
罪の中をさ迷い歩いている私たちにたいする、
この世界を創造された創造主なる神の、
究極的な決断と態度の決定という出来事なのです。

私たちを救うために。
神の怒りの裁きから救うために。
裁かれるのは神であり、
また、その裁きから救ってくださるのも神ご自身なのです。


北白川 スー

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Wrote up on March 06, 2013.