福音なき日本・2



日本でのキリスト教の布教には、長い歴史があります。
しかしながら、依然として少数派に甘んじています。
全人口の1パーセントにも満ちません。

言い換えれば、福音の宣教が進んでいない。
福音が広まってはいない・・・・・ということです。

では、福音とは、いったい、どういうことなのでしょうか。
依然として少数派ということは、
福音が、広く社会の中で、
正確に解き明かされていないことを証明していると言えます。

キリスト教の信仰とは、決してカルチャーではありません。
数多ある宗教のひとつでも、信仰のスタイルのひとつでもありません。
自己義認ではありません。
クリスチャンしているから、
自分は正しい存在なのだということではありません。
教会は、罪人の共同体であることを忘れないでください。

キリストの福音とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストの十字架の出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。

この出来事は、すべての人に適用されるものです。
だから、すべての人にたいする福音ということになります。

キリスト教の教会において、
福音が説かれ、解き明かされてこそ、
福音が、広く社会に広まっていくのです。

教会は、現代社会の歪の中の、
何かひとつの、役割とか機能というものではありません。
それが信仰の行いの形でもありません。

罪とか、原罪とか、罪の赦しとか、神の裁きとか、
神の怒りの裁きからの救い・・・・・とか、
永遠の命とか・・・・・。
これらがキリスト教の大切な、いや根本的な教えです。

これらが、人間の正確な姿を描き出しています。

正確な人間の姿を描き出しているということは、
そこに、私たちが現実に抱えている様々な問題を、
解決する道が示されているということです。

そこに、救いがあるとか、経済的な繁栄があるとか・・・・というものでは決してありません。

争いの絶えない人間たちです。
それは、人間の本性を現わしています。
私たちの本当の姿なのです。

私たちは、神によって裁かれなければならない存在なのです。

創造主に栄光を返すことを忘れてしまった人間たちの姿です。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新共同訳聖書)

人間の道を正そうとするなら、
人間の本当の姿を明らかにしなければなりません。
本性的な、生まれながらに負っている性質を明らかにすることです。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up on March 01, 2015.