人間の本性を知ることによって
キリスト教の信仰というものは、
言い方をかえれば、
人間の本性を知るとことから始まると言っていいかもしれません。
なにごともなく毎日くりかえされているように見える日々のいとなみ・・・、
その毎日のいとなみを決定づけているものこそが・・・・、
ふだんは隠れていて見えない、生まれつきの性質であったなら。
イエス・キリストは、自らのことを語っている。
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、
また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
(新約聖書・マルコによる福音書・10章45節・口語訳聖書)
イエスは言ったのです。
日常に縛られている者を、その縛りから解き放つために来たのだと。
縛りの中にある日常を脱ぎ捨てることが信仰なのかもしれません。
私たち人間は、” ありのままの自分 ” というものが見えないものなのです。
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。」
(旧約聖書・エレミヤ書・17章9節・新共同訳聖書)
「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章23〜24節・口語訳聖書)
救世主・メシアである、神のひとり子であるイエス・キリストが、
この世界に生まれ来たということは、
この世界が、そして私たちが、この世界を造られた神の目から見て堕落していることをあらわしているわけです。
まあ、私たち人間は、それを認めたくはありませんが。
私たちが逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、
キリストがこの世界に生まれ来る必要などなかったのですから。
キリスト教の信仰とは、
救世主であるイエス・キリストに聞き従うことによって、
混乱に満ちた日々の暮らしから、
解き放たれ、自由にさせられることなのです。
ここで勘違いしてはいけないのですが、
キリストは、
決して、私たちの、ものの考え方ややり方にたいして肯定的な姿勢でおられるのではありません。
まったくその逆なのです。
「イエスは答えて言われた。
『 はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)
私たちは時として、
外側から自分の正しさにたいして言い知れぬ圧力を受けていると考え、
さまざまに不安と苦しみを味わいます。
だから、自分の生き方にたいして、
” その通りでまちがってはいない ” と認めてほしくなります。
しかしながら、
それが、ふだんは隠れていて見えない、生まれつきの性質がそうさせているとしたら。
それがすべての混乱や苦しみや不安の源だとしたら・・・・。
「悔い改めなさい。
天の御国が近づいたから。」
(新約聖書・マタイによる福音書・4章17節)
神と人間との関係を妨げているのは、
私たちの罪深さなのだと。
それこそが私たち人間の本当の姿なのです。
人間は、かつては創造主なる神との関係は良好であったものが・・・、
この世界を、私たち人間をも造られた創造主なる神から遠く離れてしまった罪深い被造物としての人間・・・・・。
そしてその関係を元通りにする出来事・・・、
神との和解の出来事こそ、
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。
つまり、この世界を造られ、私たち人間をも造られた神が、
どのようにして私たち人間の罪深さを処理されたのかということであり、
そしてそこに私たち人間への救いの道をどのように示されたのかということ・・・・・・・。
それが、 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。
そして復活のイエス・キリストなのです。
キリスト教の信仰とは、まぎれもなく復活信仰なのです。
北白川 スー
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Wrote up: 03 September 2009.