原罪と十字架



キリスト教と、クリスチャンの信仰にとって切っても切れない関係にあるのが、
”原罪・ゲンザイ ”と”キリストの十字架 ”です。

キリスト教の教会の礼拝の説教で、”原罪 ”の教えが、説かれ解き明かされてこそ、
イエス・キリストの誕生と、
十字架による死と葬りと死人のうちからの復活という出来事が理解され、
また、イエス・キリストの誕生と、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が説かれ解き明かされてこそ、
”原罪 ”の教えが理解されるのです。

キリスト教の教会が語ることを止めないのが ”原罪 ”と ”十字架 ”というテーマなのです。
しかしまた、説かれ解き明かされる機会の少ないテーマであります。
”罪 ”をテーマにするから、キリスト教は大嫌いだと言う人もいます。

日本の多く人が、罪について思い違いをされているようです。
教会の礼拝の説教で説かれ解き明かされないなら、
クリスチャンだって、事実とは異なる認識を持ったり、
本来の意味とは違った理解をしたりしていることでしょう。

聖書・バイブルが語り示そうとしている罪とは、
私たちがよく知っている罪、
ときどき犯す過ち、そのような罪ではないのです。
交通違反とか、社会的なルールに反することとか、
人間倫理に反することとか、
法や習慣に反することを言っているのではありません。
私たちの具体的な行為や言葉よりも、さらに根の深いところにあるもの、
私たちの、あらゆる思いや言葉や行為のみなもと、原因を言っているのです。
私たちは、ときどき過ちを犯すから罪深いのではなく、
本質的に本性的に罪深いから、
生まれながらに罪深い性質を負っているから、
思いや言葉や行為などに罪深さがあらわれるのです。

私たちが日常の暮らしの中で ”罪 ”と認識しているものは、
すべて、私たちの本性的な罪深い性質が表にあらわれている姿でしかないのです。

ですから、人間のあらゆる困難や困窮や苦境などから抜け出すことを、解放を考えるなら、
私たちの本質的な本性的な、
私たちがもともと背負っている”生まれながらの罪 ”というものを、
考え認識しなければならないのです。
それを ”原罪・ゲンザイ ”と言います。

旧約聖書の「 創世記 」は語ります。
天地万物を創造された神は、
私たち人間をも素晴らしい存在として創造されました。
しかし、最初の人間であるアダムとエバが神の命令に背いて、
取って食べると死ぬからと、
取って食べることを禁じられていた果実を、
禁断の果実を、
善悪を判断する知識の実を、取って食べたことにより、
神の怒りを受け、エデンの園から追放されたのです。
その出来事以来、アダムに続くすべての人類の生には死が入り、
人の人生は死で終わることとなったのです。
そして、地は呪われ、
労苦して地から食を得なければならなくなります。
地上をさ迷い歩かなければならなくなったのです。

人間の罪深さの原因、起源は、この最初の人間の出来事にあるのです。

聖書・バイブルは、人間がどのようにして困難な状況に追い込まれて行ったのかを語り、
また、そこからの脱出の道をも語っているのです。

日本の社会は、もともと人は善なる存在として生まれてくるが、
社会の悪い環境や構造に影響されて悪くなると考えます。
ですから、人は生まれながらに罪深いという聖書の考え方には、
大きな抵抗があります。
いいえ、決して認めようとはしないのです。

日本人は特に、自分は正しい、自分には正当性がある、
自分にとって大事な守るべきものがある、
だから自分の可能性を信じて生きて行くことが正しいと、
そのような考え方が、人生観なり価値観となり思想となっています。

そのような価値観が人生観となり、
生活や行動のすべての判断のよりどころになっています。
さらに、自分自身を、まとまりのあるものにしようという心の動きとなってあらわれるのです。

しかしそのような考えが、
人の言い知れない混乱や不安を生み出している原因であり、
人間関係のあつれきを引き起こしている原因でもあるのです。

人間を作品として造られた神は、
人間の心を知り尽くしている神は言われます。

「 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。」

(旧約聖書・預言者エレミヤの言葉・エレミヤ書・17章9節・新共同訳聖書)

人の心は、その心を理解することさえできないほど、
はなはだ堕落していると語っているのです。

すべての人は、創造主・父なる神にたいして罪を犯しているので、
創造主なる神の栄光を受けられなくなっているのです。

「 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)

日本では特に、自分自身がまわりから、必要とされることを、
自分にたいする栄れとして求めますから、
無視されることにたいして怒りさえ覚えます。

日本人には、”神から栄光を受ける ”ことに価値を見出さないのかもしれません。
聖書・バイブルは、一貫して神の栄光を語り、光り輝かせます。
そこから、神の作品としての人間の姿を描きだしているのです。

世界を造られた創造主なる、唯一の神との関係、
”創造主なる神と人間との関係 ”の上に立ったときこそ、
またそこからすべてのものを見て、また考えたとき、
”自分自身の罪深さ ”というものが、
はっきりと認識することができるのです。
そうしてこそ始めて、
自分自身の罪深さからの脱出、解放というテーマが明らかとなるのです。
自分自身を客観的な目で見るということでしょうか。

神のひとり子イエス・キリストが、
つまり、救世主・メシアが、この世界に生まれ来たということは、
この世界が、神の目から見て堕落していることをあらわしているのです。
そして、堕落からの脱出と解放への道筋が明らかにされているのです。
逃げることも救われることもできない状態でなければ、
メシア・救世主なるキリスト・イエスがこの世界に生まれ来る必要などないのですから。

「 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死に定められたこの体から、
だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・7章24節・新共同訳聖書)

「 イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)

人間の本性的な、生まれながらに負っている罪深さから抜け出すには、
もう一度、生まれ直さなければならないのです。
人は、いちど生れただけではダメなのです。
それが、死からのよみがえり・復活と言われるものなのです。
このメッセージこそ、イエス・キリストの十字架の出来事、
キリストの生と死と葬りと復活という出来事の意味なのです。
すなわち、キリストの福音そのものなのです。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

罪深さのまま人生を歩めば、
必ずやってくる神の怒りの裁きのとき、
待っているのは、永遠に続く苦しみ、滅びへの道なのです。

では、どうすれば、神の怒りの裁きから救われるのでしようか。
自らの本性的な罪深さを認識し、悔い改め、
”死からの復活の方 ”であるキリストへと、
心の向きを変えることによってのみ、
キリスト・イエスに聞き従う道を歩むことによってのみ、
救いの道は用意されているのです。

「 神はモーセに言われた、
・・わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、
いつくしもうとする者を、いつくしむ・・。
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、
ただ神のあわれみによるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・9章15〜16節・口語訳聖書)

「 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。
もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・11章6節・新共同訳聖書)

人間の罪深さというものは、
努力や行ないによっては改めることはできないのです。
日本の多くの人は、人は、もともと善なるものだから、
努力や行ないによって罪深さは改めることができると信じています。
”もともと善 ”であれば、イエス・キリストの十字架の出来事は意味を持たなくなります。
それとも、善良だから救われなければならないと考えているのでしょうか。
イエス・キリストは、私たちの罪深さというものを、
その身に負って、罪の中に死んで行かれたのです。
私たちの罪を贖うために・・・。

人間は、もともと素晴らしいものとして創造されたのですが、
創造主なる神に背いたことにより、
罪深さという性質を負ってしまったのです。
神は、そのような、神の作品としての人間にあわれみを示され、
ひとり子イエスをして、
本性的な罪深さから引き起こされてくる、
不安や、悩みや、痛みや、不満といったすべてを、
イエスの身に背負わせ、
罪人として十字架の上で死にわたされたのです。

神に背き、罪の中を歩まなければならなくなった私たちにたいして、
神は、私たちに代えて、
そのひとり子イエスの命を死にわたすことによって、
神との和解というわざを完成されたのです。
それが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

ですから、
私たちの罪深さを、私たちに代わり、その身に負い、
その罪深さを死にわたされたイエス・キリストを、
自分の主権者として受け入れ、
イエス・キリストに信頼を寄せる信仰によってのみ、
人は、神の怒りの裁きから救われることができるのです。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)

自分自身を信じて生きてきたことにより招いた混乱と不安・・・。
キリスト・イエスに聞き従って歩むことによって得られる平安な人生・・・。
あなたならどちらを選びますか。
人生は、やり直しができます。
ただし、神と人間との関係に立ったときのみですが。


北白川 スー

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Wrote up on December 13, 2013.