語られることのないキリスト教のテーマ


 キリスト教の信仰において、

 本質的なことがらだけど、

 語られることの少ないテーマ・・・。

 キリスト教の中心となっていて、

 この大事な部分がなければ信仰そのものが成り立たないものとして、

 キリスト教そのものをこの世界に生まれさせた出来事・・・。

 それが、神のひとり子・イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。

 イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事なのです。

 だれひとりの例外もなく、

 人間が生まれながらに負っている性質、

 創造主なる神にたいする背きの罪というものを、

 その罪を、私たち人間に代わって、

 その身に負い、罪人として十字架刑により処刑され、

 私たちの罪の代価を、その命とひきかえに支払ってくださったという出来事・・・。

 神との和解の出来事なのです。

 最初の人類・アダムが神に背いて、

 取って食べると必ず死ぬから取って食べてはいけないと命じられた、

 善悪を判断する果実を取って食べたという出来事・・・、

 創造主なる神にたいする背きの罪を、

 それを、すべての人間が負ってしまった罪・・”原罪・ゲンザイ ”・と言います。

 その罪の性質が、

 思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、

 自分にたいして、人にたいして、神にたいして、

 罪を犯してしまうのです。

 罪の性質として人類を支配してしまった出来事に始まる・・・。

 まず第一にキリスト教がテーマとしているもの、

 どのようにして人間が苦境に追い込まれたのかということではなく、

 そもそも人間の苦境が何であるかということを明らかにするものなのです。

 私たちの思いや言葉や行為や行動をおこさせる、

 そもそもの原因を言っているのです。

 私たちは、それは多くの問題を抱え、また常に引き起こしています。

 その起源にこそ原罪があると、

 生まれながらに負っている罪深さがあるのだと。

 だからこそ、イエス・キリストは言われるのです。

 何もかも捨てて、私に従ってきなさいと。


 「 イエスは答えて言われた。

 はっきり言っておく。

 人は、新たに生まれなければ、

 神の国を見ることはできない。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)


 自分の生き方や考え方ややり方にこだわるのなら、

 それは自分を義とするものです。

 決して神の義ではありません。

 私たちに罪がなく、

 私たちが正しいのなら、

 イエス・キリストが、

 救い主としてこの世界に来られる必要などないのです。

 なぜイエス・キリストは、

 私たちに悔い改めよと、


 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」


 と言われるのでしようか。

 すべての人間の人生には、

 生まれながらに負っている罪深さがあり、

 人生において、新たに生まれ変わらなければ、

 もともとの状態にもどることはできないのです。

 創造主なる神が、

 神に似せて、素晴らしいものとして創造されたところへ・・・。

 信仰というものは、

 自分には問題があり、

 神のひとり子・イエス・キリストに聞き従って人生を歩まなければ、

 神の作品としての人生を送ることはできない・・・・。

 イエスに信頼する人生・・・、

 それが信仰の歩みなのです。


北白川 スー

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Wrote up on 15 January 2012.