キリスト教って何ですか・キリスト教と罪との関係



混沌とした現代社会の、落ち着きのないいそがしい日々の暮らしの中で、
キリスト教の信仰というものが、私たちとのかかわりという意味で、
実際に見たり聞いたりすることもなく、その場に居あわせる機会もなく
その存在が、私たちの意識の内に、あまりにも希薄で、
キリスト教の信仰の本質や実体があまりにも知られていないのが、この日本ではないでしょうか。
クリスチャンであっても、”罪について分からない ”という言葉を耳にします。
キリスト教の信仰とは、
カルトまがいの、強制的に従わせる教えをかかげる宗教なのでしょうか。
それとも、2000年もの長い歴史の中で絶えることなく守られてきた、
世界の隅々まで伝えられ広がり続けてきたものなのでしょうか。
キリスト教と言えば、イエス・キリストです。
キリスト教の信仰を成り立たせているのは、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味するところなのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事だからです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事だからなのです。
十字架に張り付けになったイエス・キリストなくしてキリスト教を語れませんし、その存在すらありません。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
イエス・キリストの ”死と葬りと復活 ”を伝えています。
イエス・キリストの ”死と葬りと復活 ”なくしてキリスト教は語ることができませんし、その存在すらないのです。
イエス・キリストの死と葬りと復活を解き明かさないキリスト教があるとすれば、
そのキリスト教を疑ってみても間違いはないでしょう。
キリスト教と私たちとのかかわりは、どういうことなのでしょうか。
聖書・バイブルは、初めから終わりまで一貫して ”人の罪 ”をテーマとして大胆に語っています。
それを抜きにしては、私たちの存在すら考えられない性質、
私たちが生まれながらに負っている、”本性的な罪深さ ”という生まれつきの性質なのです。
それを”原罪 ”と言います。
”原罪 ”とは、法律や規則に反した行為や、
人間倫理に反した行為のことを言っているのではありません。
人間の生の根にあるもの、
あらゆる思いや言葉や行為などの根にあるもの、
具体的な行為よりも、さらに深いところにあるものを言っているのです。
ふだんは隠れていて見えない生まれつきの性質のことを言っているのです。
生まれたときからの罪深さが、思いとなって、言葉となって、
行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
聖書・バイブルは、天地万物を、そして人間をも創造された父なる神と、
神の作品である、被造物としての私たち人間との関係を、
作者と作品とのかかわりというものを視野に入れて語っているのです。
創造主なる神は、創造の時、人間を素晴らしいものとして創られたのですが、
しかし、最初の人間であるアダムとエバが、神の意志に背き、
取って食べることを禁じられていた善と悪を判断する果実を取って食べたため、
それが原因となって、父なる神の怒りを身に受け、
楽園から追放され、地上をさ迷い歩かなければならなくなったのです。
最初の人間であるアダムとエバが神に背くという過ちを犯すことによって、
それに続く人類は、ことごとく”罪の性質 ”を持って生れてくることになったのです。
それを「原罪・ゲンザイ」と言います。
生まれながらに負っている罪深さという性質によって、
思いや言葉、行為や行動にいたるまで、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして過ちを犯してしまうのです。
私たちの不安や苦しみや悩みというものは、
すべてこの性質によって起きてくるのです。
人間が、どのようにして困難な状態に追い込まれていくのかということではなく、
そもそも、人間の苦境というものの原因を、私たちを支配しているは何なのかを語っているのです。
人間ひとりびとりが、「原罪」によって心も体も、共に縛られ支配されているのです。
それが罪の正体なのです。
私は罪など犯してはいませんと言う人がいるならば、
罪について分かりませんと言うならば、
それは、神にたいして背を向けていることになります。
自分の義を主張していることになるのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの贖罪という出来事を否定することになるのです。
すべての人間が、原罪によって心身ともに縛られているとすれば、
それでは救いはありません。
しかし、父なる神は、
創造主ゆえに、作者ゆえに、
罪深さの中をさ迷い歩く被造物としての人間をあわれみ、
救いの手を差し伸べられたのです。
作品は作者に栄光を返すために創られたのですから。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

父なる神は、ご自身のひとり子イエスを地上につかわし、
私たち、罪深い人間に代わって、
罪を知らないイエスを罪人として十字架にかけ、
神の怒りをイエスの上に下されたのです。
このイエス・キリストの十字架の出来事によって、
すべての人への救いの道が開かれたのです。
最初の人間であるアダムとエバが父なる神に背いたため、
それに続くすべての人間のおかれた状態は、
自らが持っている能力や、良い行ないだと思っている行為によってでは、決して救いに入ることはできません。
救いにいたる道は、イエス・キリストを自分の主として受け入れ、
さらにイエスに信頼する信仰によってのみ開かれるのです。
イエス・キリストを自分の本質的な罪深さという性質の贖い主(あがないぬし)として信じ信頼することによって、
父なる神への背きの罪はゆるされ、父なる神と和解し、
再び創造主と創られた者との正常な関係を回復することができるのです。
神の子という身分を取り戻すことができるのです。
イエス・キリストを信じるということは、人の人生において、かつてない大きな方向転換と言えます。
神との関係を取り戻すということは、
言いかえれば、死んでいた者がよみがえったということなのです。
ボーン・アゲイン・・新しく生まれ変わったと言えます。

「 イエスは答えて言われた。
はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新共同訳聖書)

私たちが持っている知恵や能力や行為によってでは、
私たちが置かれている状態から、
苦しみや悩みや不安に満ちている状況から抜け出すことはできないのです。
イエス・キリストの、死と葬りと復活を信じる信仰によってのみ新たな希望に満ちた展開がひらけてくるのです。
それが、人間の生まれながらの愚かさ弱さを認識した時から始まるキリストへの信頼なのです。


北白川 スー

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Wrote up on November 12, 2012.