勝ち組と負け組



美しく語られる、アメリカン・ドリームとサクセス・ストーリー。
しかし、すべての人がドリームとサクセスを手にすることが、
生活の中に取り入れることができるわけではない。
疲れ果てた負け組も存在する。

キリストの福音とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味なのです。

すべての人を罪の中から救い出し、
罪にたいして勝利させるために、
イエスは十字架の死を選ばれたのです。
キリストは、罪に勝利したのです。

罪から来る報酬は死であり、
その死を克服したのがキリストの十字架の出来事です。

「罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新改訳聖書)

この罪とは、私たちが生まれながらに負っている罪深い性質のことです。
”原罪 ”ゲンザイと言います。
最初の人間が創造主なる神に背いたことによる結果を言います。
この原罪が、私たちの思いや言葉や行動行為によって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが私たちの現実の姿なのです。

キリストの福音は、
決して弱者救済ではなく、
勝利者を生み出すためにイエスは十字架に死なれたのです。
キリストへの信仰は、勝利者へと導くものです。
キリストの福音は、勝者の論理と言っていいのです。

ひとりの例外もなく、すべての人は罪深いのです。

キリストの教会は、社会的弱者を、
現代社会から疎外された人たちの集まりではなく、
のけ者にされた人たちの集まりではなく、
むしろ、社会をリードするために教会は社会の中に立てられたのです。

イエス・キリストを頭とするキリスト教の教会は、
マイノリティーではなくメジャーであることを求められているのです。

日本人が抱くキリスト教の教会にたいするイメージは弱者救済です。
しかし、聖書・バイブルが語るのは、
罪の世の中にあって、
主イエスに聞き従う信仰によって、
罪の構造から、
命の構造への転換を言っているのです。
キリストによる祝福された人間社会を、
地上に作りだすことなのです。

イエス・キリストに聞き従う信仰によって、
社会のすべての分野に影響を与え、
罪の構造から、
命の構造への転換を言っているのです。

負け組ではなく、
主イエスにある勝ち組を作りだすために・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on April 22, 2013.