キリストを信じるだけで救われるのですか



イエス・キリストを信じれば救われます・・・と、
キリストの教会で言われます。
では、何から救くわれるのでしょうか。
たしかに聖書・バイブルは次のように語っています。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。
聖書にも、主を信じる者は、
だれも失望することがないと書いてあります。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、
すべての人に同じ主がおられ、
御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜13節・新共同訳聖書)

聖書は、”信じて義とされ、口で告白して救われる”と記述しています。
聖書は、
キリストの贖罪の出来事・・。
神への罪から救うためにキリストがすべての人たちに代わって十字架にかかって死んだということ。
つまり、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを、
さらに、葬られて、三日の後に死人のうちから復活したという、
イエス・キリストの ”死と葬りと復活 ”という出来事の内容と意味とを理解していることを求めているのです。
ただイエスを信じているだけでは救いはありません。
文言を暗記して、よく覚えて、
ただ口に出して言うだけでは救いはありません。
そんな虫のいい話ではありません。
聖書は、意味を理解し受け入れ承認することを求めているのです。
ただイエスを信じている信仰なら、
罪について分かりませんという答えしか帰ってこないでしょう。
救いの確信すら分からないことにでしょう。
では、何からの救いなのでしょうか。
私たちには、救われなければならない何かの危機が待ちかまえているのでしようか。

「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)

私たちに何が待ちかまえているのか聖書は明確に語っています。
裁きの座に立たされて報いを受けると・・・。
それと、イエスの十字架による死とは、
どういう関係にあるのでしょうか。
救いとは、
神の裁きの判決からの救いのことなのです。
神の怒りの判決を、私たちに代わって、
その身に負って十字架に死んでくださったのがイエス・キリストなのです。
やがて来る、必ず来る世界の終わりのとき、
生きている人も、かつて生きていた人も、
神の裁きの座に、引きだされることになります。
すべての人は神の裁きの座に立たなければなりません。
すべての人間にたいする神の怒りと裁きが待ちかまえているのです。
イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事こそ、
神がご自身のひとり子イエス・キリストの生と死と復活において備えてくださった救い・・・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)において、
私たちがどのように罪を赦され、
罪から解放されたのか・・・・。
ここを明確に理解しなければ、
確信に満ちた信仰と、救いの確信を得ることなどできません。
神は裁き主です。
創造主なる神の前に正しい者として立つことができるのが救いの中身なのです。
私たち人間は、ひとりの例外もなくすべて罪人です。
創造主なる神の意志に背いた罪人なのです。
創造主なる神にたいして負い目を持っているのです。
ですから、罪についても明確な理解がなければ救いについても理解することはできません。
ただキリストを信じるだけでは救われません。

「 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。
この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、
来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

 (新約聖書・テサロニケの信徒への第1の手紙・1章10節・新共同訳聖書)

救いとは、救いが必要であることを認識するところから始まるのです。
逃げることも救われることもできない状態の中にあることを知ることから始まるのです。
キリストは、私たちの罪を贖ってくださったのですから。


北白川 スー

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Wrote up on November 14, 2012.