イエス・キリストとは、いったい誰なのか



日本の社会では、よし知られているようでいて、
実は、よく知られていないのがイエス・キリストなのかもしれません。
聖書・バイブルは、イエス・キリストという存在を次のように語っています。

「 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。
そして、世は彼によってできたのであるが、
世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、
自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、
すなわち、その名を信じた人々には、
彼は神の子となる力を与えたのである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・1章9〜12節・口語訳聖書)

人々を照らすまことの光がこの世界に来たのです。
人々は、その光を知らない・・・・。
ここで ”光 ”とあらわされた方こそイエス・キリストその方なのです。
そのイエス・キリストを、ののしり、はずかしめ、ムチ打ち、十字架につけてしまったと聖書は語っています。
現代の日本であっても、イエス・キリストを私たちを光照らす存在とは受け止めてはいません。
それどころか、私たちの暮らしには、まったく関係のない、
どこか遠い国の話か、神話だと思っています。
聖書の世界や価値観から遠くはなれているのが日本の社会なのです。
ところ変わっても宗教というもの信仰というものは、
そこに暮らす人たちの生きる過程と共にあるもの、
生活と共にあるもの、人間の存在と共にあるものです。
イエス・キリストを、ののしり、はずかしめ、ムチ打ち、
十字架につけて葬り去ってしまったと聖書は語っています。
私たち日本の人たちの姿を言いあらわしているようです。
聖書の言葉から聞くことをはばんでいるものは、
自分の感覚や感情、経験や知識、
また世間の常識からくる思い込みなのかもしれません。
私たち日本人は、日本の古来から伝わる精神的な霊的な縄目や習慣から、
また自分の生き方や考え方ややり方といったもの、
そうあらねばならないという常識の世界から抜け出せないでいるのかもしれません。
未来に希望を抱いて生きていきたいと思うなら、
自分の生き方はこれでいいのかと思うなら、
自分は今、やみの中にいるように出口が見えないと思うなら、
イエス・キリストに向きを変えてみてはどうでしょうか。
聖書・バイブルの言葉に耳を傾けてみてはどうでしょうか。
宗教や信仰は、迷信や非科学的な態度だとは思わないで、
どちらを向けばいいのか分からないという、
見通しのたたない心の迷いを打ち砕くものなのだと考えてみてください。
神とその言葉の中にある信仰から出る精神や知恵に生きるのもまたいいかもしれません。

「 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は世にあった。
世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、
その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・1章9〜12節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 11, 2012.